追憶の森




「君が救急車に乗ったことがないだなんて、知らなかったよ」


最近の映画からはあまり得られない、懐かしい感じの「甘さ」があった。えーっ、というお話なんだけど、悪くない。始め、渡辺謙(の役)が英語が喋れてよかったね、と茶化す気にもなるが、そうじゃないのだ、喋れて当然なのだ。


冒頭、とある石の上に落ち着いたアーサー(マシュー・マコノヒー)が懐から取り出したペットボトルのフタを外し、薬を飲み、眼鏡を取ったところに人の気配がして、彼は眼鏡を掛け直して「しまう」。そしてタクミ(渡辺謙)を見つける。この場面のためにマコノヒーは眼鏡を掛けているんだなと思いきや、この映画、全篇通じて、びっくりするほど分かりやすく小道具として眼鏡を使うのだった。それは生きる意欲の表れなのだ。中盤、落下したアーサーから離れた眼鏡を、タクミは懐に収めて持ち運ぶ。受け取ったアーサーは紐を着け、落ちないようにする。炎の前で妻について語り、sorryと繰り返す場面ではグラスに炎が映る。担架の上の横顔にぴったりはまった様子は、彼が生き延びる証のようである。


一度目の回想パートにおいて、ダッシュボードの中の口紅を見つけられないアーサーを、妻のジョーン(ナオミ・ワッツ)が「あなたはいつも探そうとしない」と責めると(この時の彼は、眼鏡を掛けていても何も「見ていない」)、彼は「口紅くらいで」と返すが、次の回想パートでは、帰宅後に眠ってしまいやかんをかけっぱなしのジョーンに「家が燃えちゃうわね」と言われると、アーサーは「家の問題じゃないんだ」と返す。二人は分かりあっているのに、敢えてすれ違っている。知人との会食の後には、相手がこちらを向いていない時にそちらを見るが、こちらを向きそうになると目をそらす、というのを互いにやるのが面白い(ここでも「眼鏡を掛け直す」仕草が意味を持つ)。後の彼の回想や語りはこうした描写の「説明」となる。随分と「理詰め」の映画である。


作中一度だけ、回想パートのジョーンが眼鏡を掛けている場面があり、これがとりわけ素晴らしい。飲んで帰ってソファで寝てしまった彼女の眼鏡をアーサーが外してやる時、優しい音楽が流れ、アングルが替わり、眠っているはずのその顔に笑みが浮かんでいるように見える。二人の「ゲーム」のことを知った後で思えば、この時ジョーンは「ありがとう」と言っているのである。


この映画の「樹海」は、あんなにも緑でいっぱいなのに、ものが燃え尽きた跡の灰のように見える。かすかに聞こえる諍いの声(海外ではあれに字幕が付くのだろうか?)は、消えたと思っていたら煽られて揺らめく、小さな火のようだ。こんなにも色んな「偶然」が、と思うが、富士山をも捉えた眺めや張り巡らされた何本もの紐、あれらを思うと不思議じゃない。


道中、「万全の体制でやってきた」者のテントで雨宿りするくだりで、マコノヒーがecho(の箱)を口にくわえる姿なんてものが見られる。「日本人」としては、これを残した人物(ネタバレだけど、それは「彼」なのかもしれない)は安価な商品を買うような信条、あるいは暮らしだったのだな、いやもしかしたら「こんな時」だからこのタバコにしたのかな、などと思いをめぐらすことが出来るわけで、「外国」が舞台の映画では、私はそういう機会をことごとく逃してるわけなんだよね。そう思うと歯がゆい。