博士と彼女のセオリー



理論物理学スティーヴン・ホーキングと彼の元妻ジェーンが共に生きた時間を、彼女の著書を元にして描いた作品。あまり感じるところ無かったけど、昨年モンティ・パイソンの復活ライブを見ておいたおかげで少しは楽しく見られた(笑)


ティーヴン(エディ・レッドメイン)とジェーン(フェリシティ・ジョーンズ)が出会う場面で、そりゃあエディ・レッドメインを見たら一目惚れするに決まってるだろ!と思ってしまい、そのあたりからどうも乗れず。どんな映画でもそんな感想、抱き得るはずだけど、どういう映画の時に特にそう強く思うんだろう?
二人の作中最後のやりとり「私達の関係は素晴らしかった」「僕達の生み出したものを見て」に次いで子ども達が女王陛下の庭園をはしゃぎ回るカット、というのも釈然としなかったんだけど、エンドクレジットでジェーン自身の著書が原作だと知り、それなら「そう」なのだと思う。「あの晩」の符合?も、きっと「そう」なんだろう。


私としては、「きっと、星のせいじゃない。」と通じる部分があるのが面白かった。「病気」ものという意味じゃなく、二人の「考え」が異なっているというところ。ケンブリッジ大学の舞踏会の晩、「神」を信じないスティーヴンの前でジェーンが「まず天と地が…」と「神」の存在を肯定する文句を引いた後、彼は初めて彼女の手を取る。時が流れ別れについて確認し合う場面でも、この問題を優しく扱うことで、その関係も「優しい」ものだったと分かる。尤も「きっと〜」と違い本作の場合、その「考え」は二人の関係に影響を及ぼす類のものじゃないから、そりゃあそのままにしておけるよなあ、と思わなくもないけれど。
二人の考えの相違が関係に支障をきたさない、モノガミーという常識に反する状況になる理由は「必要にせまられて」、といったふうに、この映画では、様々なことが起きているのに、思考の元になる波風があまりたたない。だから、すごいなあ、よかったなあ、といった平坦な感想しか持てない。


本作は「眼鏡」映画でもある。冒頭とあるタイミングでジェーンがスティーヴンの眼鏡を拭くのが、彼女の存在が彼の視界をクリアにするという、これもまたメタファーなのかな。終盤にも眼鏡拭きシーンがあり、ああいう場面では、実際あの眼鏡、汚してたりするんだろうか?と考えた(笑)
とある場面で、ベッドでもう寝ようとしているスティーヴンが、眼鏡を掛けたまま、ジェーンに向かって「僕は理解する」と声を掛けるのが、「しっかり『見た』上で言ってるよ」という意味だと私は受け取ったんだけど、まあ、単に自分で外すことが出来ないからなんだろうな…