幸せなひとりぼっち



サーブが「消える」来年を前にして、日本でも今年「ハロルドが笑う その日まで」と「幸せなひとりぼっち」という「サーブ映画」が二本ちゃんと劇場公開されたのは、喜んでいいものだろうか。「車が前に進むのは、簡単に見えてそうじゃないんだ」


「母」が一人いた、亡くなった、「父」が一人いた、亡くなった、今や「妻」も亡くなり「友」もいなくなろうとしている、そうなれば「隣人」に心を開くのは難しいかもしれない。でも「隣人」は確かにいて、家族の代わりになりもする。まずはそんな話である。本作が「スウェーデン映画史上歴代3位となる興行成績となる大ヒット」というのには、日本で近年「団地映画」が流行っているのに通じるものを感じる(こちらじゃそこまでヒットしてないけど)


冒頭、主人公オーヴェ(ロルフ・ラスゴード)が玄関脇に並べて掛けたままの妻ソーニャ(イーダ・エングボル)のコートの匂いを嗅ぐと回想シーンに入るが、確かに匂いは記憶を喚起する。後のソーニャとの回想シーンに、レストランでの「月の光」を始め、妊娠を告げる前のリル・リンドフォースや、スペイン旅行へ向かうバスの中での曲(当時のヒット曲だろうか、私は知らない)など音楽がはっきり流れるのも、そういうことなのだと思う。


始めのうち、オーヴェが回想する内容の多くは、父も妻もいない今となっては誰とも共有していない「思い出」である(この時「死ぬ間際には脳が活発になって」という説明がなされるのが斬新である・笑)それは彼が「閉じて」いるからである。亡き妻との「思い出」がどれも夢のように「甘い」のは、そのせいもあると思う(それが「嘘」だとか「悪い」とかいう意味ではない、初めてのキスシーンなど今年ベストかも)。隣人パルヴァネ(バハー・パール)に話すことでそれが「漏れ」てゆき、終盤、自分と妻だけでなく「周り」を含んだ「思い出」をこじ開けることにより、彼は変わる。


変な言い方だけど、私にとって、欲しいところにボールを投げてくれる映画でもあった。出会いの場面で何を読んでいるのか知りたければ、ソーニャが「巨匠とマルガリータ」だと教えてくれるし、オーヴェにとってソーニャの存在はまるで神様みたいだと思っていたら、パルヴァネが「それじゃあgodじゃない、彼女も嫌がる」と指摘する。私がオーヴェの気持ちにとても沿っていたから、彼の周囲の人々が彼のことを「分かって」いたから、なんだろう。