オープニング、鋭く切れ切れに映る列車の車窓から軍用機の飛ぶ姿が見える。主人公エンデル(マルト・アバンディ)がエストニアの小さな町、ハープサルに到着すると、頭上をまた飛行機が行く。若い身でこんな田舎にやってきた理由を校長に問われ「都会は合わないんです」と答える、ようやく真正面から映される彼の表情からはそういったものに対する思いは分からないが、その後にフェンシングについて聞かれた際の「もうやめました」にははっきりと諦念がある。校長は「労働者階級にはふさわしくないスポーツだ」と話を終える。
「運動クラブ」のために埃を被っていたスキー板を修理したエンデルに、同僚のカドリ(ウルスラ・ラタセップ)は「雪が積もるといいわね」と声を掛ける。翌朝、彼が学校の門を入ると、子ども達が雪を投げ合って遊んでいる。私は雪とは人の仮面を剥がすものだと思う。彼はスキー板を「軍に寄贈した」と言う校長に「それじゃあ何をすればいいんですか」とくってかかり、校長は「言っておいただろ」「今言った」と返し、互いに「素」を表し始める。その日、彼は自身を危険に晒すことになろうともフェンシングを教えると決める。
ここから「ものを教える」ということについての両輪、すなわち「教える事」についての知識や技術と「『教える』という事」についてのそれとが回り始めるが、フェンシングの選手だったエンデルには後者の輪が殆ど無い。だから、整列していたヤーンが腕を伸ばして自分をつつく理由や、装具を着ける番になったマルタが無茶をする理由が分からない(「傍目八目」と言っていいのか、こちらには「分かる」から胸が痛くなる)。このマルタの「なぜ試合に出ないの」には、「ローグ・ワン」のジンの「勝算があるか否かじゃない、それを選ぶか否か」を思い出していた(笑)
スターリン政権に父や祖父を連れて行かれた子ども達は、彼を「父親の代わりのように」慕い、カドリが分かって欲しいという気持ちから叫ぶように、「辛いことを忘れられる」からフェンシングに熱中する。ある日現れた青年が皆の「父親」代わりにならなくてもいいような、そんな世界に早くなってほしいと思いながら見ていた。彼はきっと、この物語の後にこそ「先生」になるのだと。
駅のホームに流れるアナウンスが常に女の声であることから、町に男が居ないことが分かる(ラストシーンではどうかと思っていたら、流れなかった・笑)また「何かに打ち込んでいる時には辛いことを忘れられる」…って、最後の試合の時、私こそがエンデルの現在の辛苦を一瞬忘れてしまっていた。決着が着いた時、しばらく誰も拍手をしない、あの「間」にも、戦禍のようなものが在ると思った。自分で物事を判断したり他人を祝福したりといった素質に蓋がされているのだと(そして、それを取り除いてやるのも教師の仕事なのだと)。