はじまりの街



二人の少年が並んで自転車に乗っている。サッカーの話の後に友達と分かれたヴァレリオ(アンドレア・ピットリーノ)は、通りからすぐの豪奢な家に帰り、父親が母親を虐待するのを見る。彼はここローマからトリノへ移っても自転車と一緒だが、母親に対してぶち切れる時、「(自分は)やることもなくて馬鹿みたいに自転車に乗ってるだけ」と言う。「振り返ればそう思える」ということだけど、そういう自転車の使い方って新鮮だった。


夫から逃れたアンナ(マルゲリータ・ブイ)は、ヴァレリオを連れて親友カルラ(ヴァレリア・ゴリノ)の元に身を寄せる。彼女の家は夫の「俺の家」とは対照的な、「独身を通した叔母の家」。こじんまりと「幸せの台所」と「自慢の居間」に、二階には「貸すためのダブルベッド」を備えている。夫の仕打ちに耐えていたことにつき、カルラに「ありえない!」と畳み掛けられたアンナが「全てが不合理で説明出来ない」と言うのがリアルだ。「あなたの話をしてよ」と話題を変えると、カルラは「私の人生は笑い話よ」と返す。


トリノの街は美しくも汚い。親子が降り立つぴかぴかのトリノ・ポルタ・スーザ駅、ポー川、紅葉の歩道と、建物に適当な余白があればが存在する、という程多い落書きの数々。カルラの家は市場に続く素敵な路地の裏にあるが、表のビストロには「子どものいたずら」が絶えず、オーナーのマチュー(ブリュノ・トデスキーニ)はその親から「フランス野郎」と蔑まれる。自転車は塀の内側に入れなければ盗まれる。


作中ヴァレリオが、何て幸福そうな!とびっくりするくらいの顔をするのが、好きな相手とバスを待っているというだけのシーン。その「問題」を乗り越えた彼が「仲間」と走っていくラスト(そう、自転車に乗らずとも、家の近くで遊べるのが子どもには幸せなのだ)には、これははみ出しものの話だけれど、子どもにはその年、その年に適したやるべきことがあるという主張がはっきりと見て取れ、私もそう思うけれど、映画としてはあまり好みじゃなかった。


映画の終わり、家族として強固になった三人の様子に、数年後、息子が一人立ちしたら女二人で暮らすことも出来るよなあと思う。同時にカルラもそう裕福でないのだと初めて気付く。蚤の市で見つけた10ユーロのブラウン管のテレビ、シェルターに連れて行かれる寸前で引き取った犬。アンナとマチューが仲良くなるかもと予感させる場面では、映画の観客にとって二人は既に十分な繋がりがあるのだが、彼らには「これから」なのだと気付いて面白く思った。