薬の神じゃない!


雨の晩に主人公チョン・ヨンが言い放つ、それを口にしたらおしまいの「おれは患者でもないのに」。後に義弟のツァオ刑事が患者にすがられる際の「誰だって何時この病気になるか分からないよ」なんて、言わなくていいはずの言葉なのだ。社会が言わねばならなくさせているのだ。人として「見ていられない」、どんな問題だってそれで十分なのに。

猛然と麺を食べるというのがやはりうちらには生命力を連想させるのだろう、「鵞鳥湖の夜」の終盤のそれは最後の…といった感じだったけれど、本作では命の幕開けとなる。薬を飲んだ患者のリュが麺、だけじゃなくおかずにも食らいつく。これに限らず薬を飲んだ者や家族がやたら活発になる描写は比喩のようにも受け取れる。金銭の悩みから少しでも解放されると元気になるとは「この世で最大の病気は貧乏」の証明だ。

販売仲間のシングルマザー、リウが働く店での「彼女が踊った後に酒につきあわせますから」とは男同士で女を物扱いしてその場を治めようとする見慣れたやり口だが、チョン・ヨンは断る。一方でこの時の彼と逆の世界、工場主としての接待の場や偽博士の壇上などでは常に女が物扱いされている。人間愛に目覚めたら女をそんなふうに扱うなんてできない「はず」だ。世の中そうでもないような事例が散見されるけれども。

初めて仲間と金を得たリウが自分を物扱いしていた男に脱げ脱げ!と享楽的に叫ぶ姿にふと、ひととき一人が解放されても他の嫌々働いている女達が救われるわけじゃないというこの状況は、「違法」薬物で命を長らえても所詮は大きな力に支配されているという物語の枠組みと同じじゃないかと暗い気持ちになった。だから映画の終わりに出る、本作によって現実が変わったという文には力づけられた。

海外へと息子を見送ったチョン・ヨンとツァオ刑事は「おれたちよりよく生きることができるさ」と言葉を交わす。でも二人はそれぞれ出来ることを精一杯どころじゃなくやった。それで国が変わったならば、自分だって下の世代だって、少しでもよく生きることができる。そのことを今の日本に重ねたら涙が出た。