ケリー・ライカート特集

下高井戸シネマにて開催されたケリー・ライカート監督特集で3作を観賞。


▼オールド・ジョイ(2006)

冒頭、縦列駐車した一台から降りたマーク(ダニエル・ロンドン)が曇天を背に歩いてくる画がなぜだか素晴らしかった。ライカート監督の映画は縦や横がはっきり表れており、それらが意味を持ってなお美しい。

前日に「ミークス・カットオフ」を見たところなので、宙ぶらりんの道中の話が続く。こちらは文明のあるところじゃなく文明のないところを目指すわけだけども。カート(ウィル・オールダム)はそうした地で何か決定的な話をしたいに違いないが、マークは乗らない。

父親になると決まっているがまだそうでないというマークの現状がまず「道中」である。これは自分で如何ともし難い道。対してカートが連れていくのは迷いはしても到達することのできる道。マークはそこに惹かれたのであり、一方で妻の目に涙が浮かんでいるように見えたのは彼女にはそれが出来ないからかなと考えた。



▼ウェンディ&ルーシー(2008)

昔見た時にはここまで素晴らしい映画だと気付かなかった。はっきり覚えていたのはウェンディ(ミシェル・ウィリアムズ)がドーナツ屋でお金の計算をしてドーナツをぱくっと食べるところくらい。ちょこっとお金を、人の心をもらったから、束の間の休息が取れたという、印象的な場面。

本作はライカートの他の作品に比べたら(背景じゃなく比喩や語り方が)明確で分かりやすい。貨物の線路や電線が走るアメリカの一部を車で通りすがったウェンディが足止めされ、その足たる車を失い、結局は大動脈である鉄道に乗って旅を続ける。奇妙といえば奇妙なことに、はぐれた相棒=犬のルーシーを探すことで、「通りすがり」を強調していた彼女はその地にいわば足を着けることになる(貼ったチラシが地元民のと並んでいるのが印象的)。でもそれも刹那のこと。家も仕事もない、から家も仕事も探せない。

映画の終わりに列車から見る、流れていく木々は、私には未練と諦念が入り混じったような、始めに見たものとは全く違う生きた温度を持つものに思われた。



▼ミークス・カットオフ(2010)

ミークとは誰だろうと思っていたら、エミリー(ミシェル・ウィリアムズ)の物騒な台詞で現地のガイドの男と分かる。彼が「ゴールには文明がある」と言うことから、少なくとも彼にとってこの道のりは文明のない、何と言うか空っぽな空間をゆく旅なのだと分かる。しかし実のところはどうなのか。

登場人物がちょっとした仕事をしているのを捉えたオープニングのめいめい感、ばらばら感とでもいうものを面白く思っていたら、終盤、原住民の言うことをエミリーが「翻訳」し、それを信じてあることを行う場面に至って初めて、物凄い共同作業が行われる。皆で何かにぶつかるかのように。

前半、女達が水を回し飲みしたり手仕事をしたりしている画面の外から男達の話し声が聞こえてくるという場面が幾つかあるのが忘れ難い。ああいう状況って結構ある。ミークの「白人でも原住民でも女は皆同じ」も、女にとって、いやこの映画のエミリーにとって、あるいは私にとって、男はそういうものだろうか。例えばセックス一つとっても、そうじゃないと思う。主導権を取れる(そういう文化の中に生きている)からそういうことが言える。



下高井戸にてスコーンを二回。
コーヒーハウスぽえむでは「くるみ×レーズン」のにブレンドコーヒー。平たく大きく固め。いいお店だった。
COFFEE & ROASTER 2-3ではオレンジのとレーズンの2個セットにクリスマスブレンドコーヒー。これはほろほろ。こちらもいいお店だった。