はちどり


1994年、ソウルの公立女子中学校。日本じゃ無いタイプの教卓だなと見ていたら、お仕置き棒を手にした担任の英語の授業、リーバイスを履いた漢文塾の「コ大男」の授業、いずれもつまらなく、主人公ウニと親友ジスクは彼らを裏で「先公」と馬鹿にしている。
一方塾に新しくやって来たソウル大学の学生、キム・ヨンジ先生は、自己紹介となれば全員がする(といっても全部で三人だが。この映画ではどこの生徒数も少ない)、内容を掘り下げもする、「顔を知っていても心を知っているのはどれだけいるか」との漢文の教え方も基本的ながら心がこもっている。作中後半ではウニが「先生」「先生」と呼び掛ける声と書きつける文字とが繰り返される。家族以外の関係には彼氏、親友、後輩、色々あって彼女にはどれもありながらどれも流動的だけど、呼びたくてしょうがないとでも言うように使い続けるのはあの「先生」だけ。ウニにはヨンジ先生こそが「先生」、生ける概念なんだと思った。

あまり好きな言い方じゃないけれど「うまい」と思ったのは、万引きで捕まった際にジスクがウニをいわば生贄にした理由が「(店主に)殴られると思ったから」だったこと。想像が及んでおらず衝撃を受けた。この映画には家父長制による暴力が当たり前のこととして描かれており、比べるものではないが、竹刀ならいい、うちはゴルフクラブだもんという彼女はウニより更なる恐怖の中に生きている。
「遺書に(自分を殴る)お兄さんのせいと書いて自殺する、幽霊になってお兄さんがお父さんに怒られてるのを見てすっきりする」なんて想像をすることしかできない14歳のウニに(振り返るとこの時もジスクは自分の境遇に耐えていたのではないか)、先生は「殴られないで、立ち向かって」と伝える…そういう人物、世界を変えようとする人物は世間では「変な人」と言われるわけだけども。ちなみにウニの姉スヒの無事に食卓でむせぶ兄デフンはウニが幽霊になって見てやりたいと思っていた姿に被りそうなものだけど、実際に見てみるとあっけなかっただろう、きっと。

この映画には、娘が母親を一人の人間として見始める過程も描かれている。オープニングの一幕は自分が帰るのがそこしかないという場所に母親がもしも居なかったら、居ても自分を拒否したら、という恐れを表しているように思われたし、外で見かけた母親が大声で呼んでも振り向かず去ってしまうのは家の外に「母親」は居ないからということに思われた。
家具の下に残された破片に、ウニは先生の言う「立ち向かう」を見たのだろうか?終盤フライパンでチヂミを焼く母親の後ろ姿を捉えたカメラには、自分と違う一個の人間を見ている感じがあった。そしてそれを背中で感じたかのように、母も娘をこれまで見なかったように見るのだった。

ウニがしこりを取った「傷」のことを口にするのは男ばかりだ。彼氏のジワンに至っては彼女の「傷が残っても私のことが好き?」に「残らないよ」という趣旨の返答をし(これについては二人ともまだ子どもなのだと思うばかりだけれど)、退院後に再会しての第一声は「傷は残った?」。この辺りには、女の容姿へのこだわりに加えて、大げさなようだけど、女が自身に覚えた違和感を取り除くという行為に文句が付けられているのだと受け取った。
手術後のウニの「私のしこりはどこへいった?」に、そういえば自分も若い頃、お腹の奥にしこりがある、あるような気がすると長い間ずっと感じていたのを思い出した。しこりがあるから何々なのだ、しこりのせいで何々なのだ、といつも考えていたものだけど、文の後半が思い出せない。取らずに大人になったのか、しこりが取れたのか分からないままだ。