リチャード二世/ヘンリー五世


BBCが2012年より制作したテレビドラマ「ホロウ・クラウン 嘆きの王冠」の劇場公開につき、シーズン1エピソード1「リチャード二世」とエピソード5「ヘンリー五世」を観賞。ランベール・ウィルソン目当てでまず後者を、時間の合った前者もついでに、という具合。シェイクスピアには子どもの頃に子ども向けの本に触れたきりで史劇物を読んだことは無いけれど、なかなか楽しかった。



▼「リチャード二世」のオープニング、ベン・ウィショー演じる王の「私の言葉は嘆願ではなく命令だ」にもその場がおさまらず、どうも何かが機能していないようだという印象を受け物語に引き込まれる。やがて機能していないのは「王」なのだと分かってくる。何とも掴みどころのない、追放されるまでは空っぽといった役どころにウィショーが合っていた。これ見よがしじゃないけど明らかな同性愛の演出もいい。


先に見た「ヘンリー五世」の「現代的」な見せ方(コロスに頼れるのと、戦闘を含む内容のせいもあるのかもしれない)に比べ、この「リチャード二世」は、内容はともかく映像が「舞台」っぽくて見辛かった。映画というものは文脈が高く「なってしまう」から、舞台劇の台詞なんかを延々とやられると互いに良さを打ち消し合うように思う。役者一人一人の区分が歴然としているから、誰もが「気の利いた台詞」(「意味のある台詞」とは違う)を口にする不自然さが気になる。落語を映像で見る時、凝った撮り方をされると白けるのにも似ている。


勿論「舞台」をロケするということが面白さを生んでいる場面も多々あり、アイルランド遠征から戻った王がウェールズの海岸の何の変哲もない岩に上って滔々と語る一幕や、フリント城にこもってヘンリー(ロリー・キニア)を迎える一幕などは素晴らしい。後者の、ああいう辺境のお城の狭さがたまらなく好きだ。ウィショーが頭のぶつかりそうな廊下を歩きながら喋るシーンなんてよかった。ついでに金ぴかの鎧をまとったそのなで肩も!


全篇がリリック対決のようなセリフの応酬の中、何てことのない「予感に従えばもう会えない」なんて言葉が一番心に響いた。この映画は「farewell」の物語である。



▼「ヘンリー五世」の冒頭、ジョン・ハートによるコロスに何だかにやけてしまった。ドラマや映画においては必要のないはずのこの語りによって、舞台を見るぞ!という意識や、トムヒ達スターの演技を見るぞ!というわくわく感が高まる。ヘンリー五世を演じるトム・ヒドルストンの作中第一声が息を切らせて入ってきての…というのはファンなら嬉しいよね、と思ったけど、シャルル6世役のランベール・ウィルソンの登場がピントの外からというのもよかった。息子ルイ役の役者さん(下の写真でランベールの向かって左)、敵いはしないけど彼の昔に少し面立ちが似ていた。



このドラマのシャルル6世は殆ど座ってるだけのつまらない人間だけど、そういう役どころなのだ。ヘンリー五世とキャサリンメラニー・ティエリー)の場面(あるいは後にそれに繋がる場面)が喜劇調であることからも分かるように、時代を軽やかな若い世代に引導する役だから。私がランベールを好きになった切っ掛けは、後年ビデオで見たフレッド・ジンネマンの「氷壁の女」(1982)でショーン・コネリーの若い恋人を目覚めさせんとする青年、つまり「若い世代」の役だった。でもっていまだに、あの年にして「父親」役って殆どない。だから終盤の「お父さん」の顔が新鮮だった(笑)


「今」このお話を見るなら、私にとっては、自分が嫁がされると察したキャサリンが英語を勉強し始める描写にこそこのお話の解釈が表れると思う。このドラマでは、よく言えば明るい、悪く言えば面倒を避けた描写がなされている。ラストの求婚の場面もトムヒの魅力に頼り過ぎじゃないだろうか(私には通じないからそう見破ってしまえる!笑)。侍女アリス役のジェラルディン・チャップリンがあの格好をも活かした、登場時からさすがの、いい意味での軽さで見せるのは、この回を担当したテア・シャーロック監督の味なのかなと思う。


中盤のハーフラー攻略でちょっとした攻城戦が見られるのが嬉しい。コロスいわく「想像力を要する」舞台だからか、脂を掛けたり丸太で押したりがミニマムな画面に映るだけなんだけど、攻城戦好きには十分、というか却って楽しかった。