物語の舞台は原作『ハロウィーン・パーティ』の60年代イングランドの「どこにでもある村」と異なり1947年のベネチア。最後に舟で発つのは、第二次世界大戦によってとりわけ大きな傷を負った者達である。ポアロ(ケネス・ブラナー)は冒頭、原作では顔を合わせることのない「ジョイス」(ミシェル・ヨー)と対峙した際に「私は多くの殺人と二度の大戦を経験した、神はいない、だから亡霊などいない」と断言するが、一夜のうちに大きなものの存在に触れ(ティナ・フェイ演じるオリヴァ夫人=クリスティがそう指摘する)、探偵として再び生き始める。
原作では作中の現在の被害者の死因はいずれも溺死であり、その水が映画の舞台であるベネチアに物語を呼んだのだと言える。被害者であるジョイスが「嘘つき」だが真実を語る、ただし「代弁」で…というのも通じている。ちなみにクリスティの『オリエント急行の殺人』で私が一番ドラマチックだと思う「声」にまつわるある事をブラナーは映画化の際すばらしく改変したが、今回も「声」がものを言う。降霊会での現象を始めとするオカルト要素、あるいは幻覚に原因があるという科学的要素(それらの分類は時代にもよるが)も数々の作品でお馴染みだし、過去の真実をポアロが明らかにすることで人々が救われるという展開は『五匹の子豚』『スリーピング・マーダー』などの型に通じる。クリスティの肝をうまくブレンドしている。
(以下「ネタバレ」しています)
中盤では、「村を焼き払われ」映画『若草の頃』のミズーリ州に行くことだけを夢見て耐えてきた姉弟に対し金を取ったんだろうと自白をほぼ強要し縛り上げもするポアロが、映画の終わりには戦争で「壊れた」父親(ジェイミー・ドーナン)の面倒を見ながらロウィーナ・ドレイク夫人(ケリー・ライリー)を脅迫し金を得ていたレオポルド少年(『ベルファスト』主演のジュード・ヒル)に責任を感じることはないと優しく声を掛ける。原作ではこの少年はジョイスの弟で、夫人を脅迫し溺死させられるもポアロは自分で蒔いた種だと厳しく断ずるのである。正義が第一、行き過ぎた慈悲こそ悲劇の元と言っていたポアロが映画では嵐の一夜を経て考えを改めているように見える。それはポアロが、いやクリスティが望んだ世界を今ならどのようにすれば実現し得るのかという問いへのブラナー達の答えのように思われた。