とても面白かった。原作小説&これまでの映像化作品と比べて見ざるを得ず、以下の感想の内容もほぼそうだけど、今更の映画化なんだから、昔を知ってる人はそうして見てしまうのが当たり前だよね(笑)
(以下の感想は「ネタバレ」しています)
ブーク(トム・ベイトマン)が娼婦と「しけこみ」先を探して登場するのにびっくりしていたら、この映画、こうしてイメージを改変された人物が口にすることによって原作の印象的なセリフが見事に生まれ変わっていた。例えばこのチャーミングなブークによる「知らない者同士が一緒に過ごし…」は小説やこれまでの映像版とは違うニュアンスを帯びる。冒頭の「糞」の場面でこれまた原作との差異を見せたポアロ(ケネス・ブラナー)による「あなたの顔が嫌いなのです」然り。
中でも面白いのはアーバスノット大佐(レスリー・オドム・Jr)がデブナムについて言う「彼女はladyだ」。ルメット版では「womanじゃない、ladyだ」、原作ではもうちょっと違う言葉が使われるこの場面、大佐を黒人男性に変更したことで意味が全然違って感じられる。
原作からの改変(ルメット版からの改変というべきか)で一番よかったのは、「ラチェットの声色を真似る」人物がマックイーン(ルメット版ではアンソニー・パーキンス)から「世界最高の悲劇女優、リンダ・アーデン」であるハバード夫人(ミシェル・ファイファー)に変わっていたこと。こじつけだけど舞台人のブラナーならではの変更のように思われた。ドラゴミロフ公爵夫人(ジュディ・デンチ)の「リンダ・アーデンは女として初のブロードウェイの重鎮になっていただろう」とのセリフも「現代から30年代を振り返った」時にふさわしい配慮だ。
比較して、ルメット版の方が圧倒的にいいのはオープニングの「事件」映像。あの恐ろしさ、終盤に繰り返される時の「ああ!」感。ブラナーの、デイジーの顔をでかでかと映しちゃうようなやり方には興覚め。音楽含めてやけに感傷的なのには参った。
「灰色の脳細胞」の扱いも新鮮だった。「このために生きづらいが仕方ない」とは、まるで昨今のアメコミ映画の主人公の苦悩だ。「無実の人が逮捕されてしまう」と説得され捜査に乗り出し、嘘を見抜いても見抜いても真相に辿り着けないことにつき、想い人の写真を前に「怖いんだ」と独白するなんて、私が何かを相談するならこのポアロだなと思ってしまった(笑)また、この「ミステリー」の特殊性(「嘘を見抜いても真相に辿り着けない」)はその動機が復讐にあるところから生まれているが、それってクリスティ作品でも珍しいことに改めて気付いた。
「希望のかなた」の主人公カーリドの「神への信仰は埋めた」と同じく、ここにも「罪の意識は埋めた」と語る者がいる。人にはそういうものを埋める時がある、それも何とも「今」の映画に思われた。罪の意識を共に埋めた人々(ポアロは謎解き時に「together」を強調する)と「神」との攻防戦では、こんなno man's landのような領域が在り得るのかもしれない。
原作小説は第一に旅の、列車の話だけれど、本作は列車映画としても大変楽しめた。映像化した際のしょっぱなの華、イスタンブールの駅での乗車シーンの長回しよりも、私がわくわくしたのは初日の昼食時の「動いてる」感。そのため橋の上での「止まってる」感、更に「動き出す」感、ポアロが「一人で下りて次の地へ行く」感がしっかり伝わってくる。
映画のラストの、お次は「ナイル」だと示唆する場面、同居人は興覚めと言っていたけれど、私はあれこそ落語のサゲ的な、観客の気を楽にして現実に戻してくれる役目を果たしていると思った。
ゴディバと映画のコラボレーション記念のアソートメント。列車の模様にポアロの口髭となれば、買ってしまった。美味しかった。作中でのゴディバの登場の仕方は、かなりわざとらしかったけど(笑)
ところで今回の映画、「帽子の箱」を使わないのにはびっくり。私にとって「オリエント急行殺人事件」の一番の小道具だから。子どもの頃、クリスティの小説で(「当時」の…といっても20年代から70年代まで幅が広いけど)西洋文化を学んだものだ。「チョコレート」や「ストッキング」の意味とかね。