ルージュの手紙



「お堅く」一人で生きてきた女と「奔放に」一人で生きてきた女が出会う、いや再会する。助手席のドヌーヴが掛けた「まつげの願い」は何だったろう?それが叶ったと見るや…なのだと思う。あの指輪があの時にはするりと抜けたわけは何だろう?それもきっと、話の都合じゃない。
マルタン・プロヴォ監督は「セラフィーヌの庭」でヨランド・モロー、「ヴィオレット ある作家の肖像」でエマニュエル・ドゥヴォスの裸足を素敵に映していたけれど、本作でもフロとドヌーヴの裸足がちょこちょこ入るのが楽しかった。


夜勤を終えた助産婦(=原題「Sage femme」)のクレール(カトリーヌ・フロ)が暗い中を自転車で帰宅し、ブラインドを下ろしたりブラジャーの跡を掻いたりしながら寝るまでのルーティンをこなす、そこへ流れてきた留守電の内容にシャワーを浴びる背中、ここまでとそのカットがまずいい。以降もカメラは彼女の背中を印象的に映す。
クレールが凱旋門に程近いベアトリス(カトリーヌ・ドヌーヴ)のマンションを訪ねる場面から、そういえば冒頭の帰路から流れていたこの映画のテーマは、洗面器のお湯にミシェル・ルグランという名のオイルを二、三滴たらしたような曲だと思う。それでいいのだ、昔は確実に在るけれどそのままというわけにはいかないし、この話にルグランの曲のような類の気持ちよさは必要ない。


面白いのは、ほぼ一人暮らしに近いクレールが、自転車で行き来できる範囲内で自分の領域を分散させているところ。パリ郊外の団地、川沿いの菜園、更に車庫の中に息子に見せない父親の品を仕舞い込んでいる。それらが、他者が入り込むことにより融合していく。
「融合」は一気に起こらず完全でもない。クレールは恋人ポール(オリヴィエ・グルメ)と母ベアトリスが意気投合しているのを喜べず引き離す。ベアトリスを息子のシモンに「子どもの頃の親友」と紹介する(その後の「キス」は、それならそのくらいもらってやろうというベアトリスの意気に思われた)。でもそれだっていいのだろう、シモンの電話に飛んでいくクレールの後ろ姿と、病室で医師に「私の娘」と口にするベアトリスの誇らしげな顔とが重なる。小屋の寝床が壊れてしまうのは笑えるが、あれだってそう、急に「二人」は支えられないというベッドの悲鳴に違いない。


「菜園」では常に生死に関するやりとりがなされるが、思えばクレールは助産「婦」という職業のみならず年齢的にもそういう時なのだ。隣のポールの両親は「もうすぐ死にそう」だし。そんな二人の恋が、セリフだけで説明される感じは皆無で、なぜか実感の陰を持って描かれる。「私の生活に男を入れる余地はない」「俺が何かを求めたか?」。これが50代同士の恋だ(フロは「49」と言っていたけれど、まあ)
「優しく、優しく」にスピードを落としてキスをする、あの描写のセンスもいいなと思った。この映画のキスはどれも素晴らしいけれど、中でも最高のキスの後の「私を泣かせないでよ」はそれこそ私だってそう言いたかった。