ぼくを探しに



シルヴァン・ショメの実写初長編作品。幼い頃に両親を目の前で亡くし喋らなくなったポール(ギョーム・グイ)が、同じアパルトマンに住むマダム・プルースト(アンヌ・ル・ニ)と知り合い、自分の記憶を呼び覚ます。


ペンで文字や絵を書き、脇のレバーをスライドさせると書いたものが消えるボード、あれは名前を何というんだろう?(…とツイートしたら「おえかきせんせい」だと教えて頂いた、そうそう、日本じゃこれだよね)マダム・プルーストが、ポールの前で、魚釣りの餌に相当する記憶釣りの餌は「音楽」だと、ボードを水面に模して説明する場面が好きだ。この映画には何でも「そのもの自体が在る」けど、この場面だけ、ボードが水面の「代わり」をする。映画が豪勢すぎて数十分忘れてた「普段使い」の想像力が、不意に喚起され楽しい。
「記憶」にまつわる物語、ある種のミステリーということで、全然違う話ではあるんだけど、クリスティの小説の中で一番好きなものの一つ「五匹の子豚」を思い出していた。記憶を「釣る」のに、ポアロは香料を使っていた(そういう場面もあった)けど、こちらは「プルースト」的、あるいは現代的?に「マドレーヌ」とハーブティー


楽器の使い方がとても素敵だ。朝…それはこれまでの「毎朝」のこと…ベッドで悪夢から目覚めてシャワーを浴びた主人公が、窓から差し込む朝陽を顔に浴びていると、二人の伯母(ベルナデット・ラフォン、エレーヌ・ヴァンサン)が開けたグランドピアノの蓋がそれを遮る。この場面からこの映画に引き込まれた。伯母達に付き合わされたポールがやっと一人になり公園に行くと、陽がもう夕方のそれになっている。でもマダム・プルーストの部屋を訪ねると、(家庭菜園のために?)多くの鏡によって部屋の中に光が過剰なほど満ちている。
盲目の調律師ミスター・コエーリョ(ルイス・レゴ)が階段の手摺を「調律」する場面や、「中国人」の女の子ミシェルがチェロと自分でポールを「挟み揚げ(笑)」する場面なども楽しい。そして終盤、マダム・プルーストの元にウクレレを返して去ろうとするポールを呼び止める、雨に唄うウクレレ。何て愛らしい。


喋らない主人公の姿にはパントマイム要素があるので、Mr. ビーンの時のローワン・アトキンソンを思い出してしまった。ギョーム・グイの造作の大きな顔立ちが少し似てるのと、どちらも「時が止まって」いるためにクマを持っているから。自分で大事に?してるのと、もしかしたら持たされたままでいるのとでは、意味が違うだろうけど。
それから、ピアノ(の鍵盤蓋)が、主人公の記憶を取り戻そうとする者(彼当人も含む)に噛み付くのを見て、そういや私、子どもの頃、ピアノ弾いてる時に蓋が落ちてこないかという恐怖に少々苛まされてたな(変な言い方だけど)と思い出した。弾いてる時には気にならないのに、弾いていない時に想像しちゃうんだよね、変なの。