妻への家路



米国在住の華人作家ゲリン・ヤンの「陸犯焉識」の一部を、チャン・イーモウが映画化。
文化大革命終結し20年振りに家に帰った夫と、夫の記憶だけを失った妻。この映画では直接描かれない反右派闘争の際の政治犯収容所の様子は、ワン・ビンの「無言歌」に詳しい、鮮烈だった(とても食べられないものが出てくる映画ナンバーワン)


映画は耳をつんざくような、いや「ような」じゃない、暴力そのものを比喩する音で始まる。列車が通り過ぎ、一人分の隙間に何とか身を隠していた男、ルー・イエンシー(チェン・ダオミン)が立ち上がる。次の場面、太ももの「列」は「銃」を持って踊る少女達。そのうちの一人タンタン(チャン・ホエウェン)が呼び出され汗もそのままに向かい、母のフォン・ワンイー(コン・リー)と党員、三人のやりとりとなる。三人とも「立場」が違うが、その描写には柔軟さがあり、ここで惹き込まれた。


汗を掻いていた娘は公演の主役になれず豪雨の中で涙を流す。逃亡者として「家」まで逃げて来た夫も豪雨でずぶ濡れになる。唯一家から出ず濡れることの無い妻が、何かを察して瞳に涙を溜める。この半径数メートル内のサスペンスのすごいこと。加えて「こんな状況」なのに、ドアの向こうの様子を窺う娘の立ち姿や、差し入れられた紙を拾う妻の腰をかがめる仕草などに、私の持つ「中国」の美しいイメージがなぜか重なりぐっときた。


タンタンの踊りが衝撃的だ。冒頭の革命バレエ「紅色娘子軍」の練習風景、家でピアノに手を付いて練習をする際の、後ろに蹴り上げる足の激しさ、目つき。革命が終わり、紡績工場に勤める彼女を舞踏学校の生徒だと思っている母親の前で、かつて逃した主役として踊る場面が圧巻だった。三人の様子に、最近の映画じゃ最も「時間」を感じた。


例えば「自分の記憶を無くした相手の前で自分の書いた手紙を読み聞かせる」など、それだけで映画一本になるような要素だけど(「きみに読む物語」など)、本作はそうした何にも偏らず、後半はただ三人の…別々の、しかし繋がりのある暮らしが描かれる。映画が「政治」から離れ、生活の現場を描くことに終始するほど、時間が立ち世が平和に見えても(作中通じて同じ「家」周辺が舞台なので、時代によってその空気が違うのが面白い)、破壊された人間は決して「元通り」にはならないという「悲劇」がより伝わってくるように思われた。


映画のラスト、諦念とも受け取れる様子で決めた事を繰り返すルー・イエンシーの姿は、中国において、今世紀に入ってから「HERO」「LOVERS」、武蔵野館で目にして新しい飲食店のポスターかと思った(笑)「王妃の紋章」などの「商業大作」を手掛けてきたチャン・イーモウの、現在の環境で自分のやり方で映画を作るのだという心と重なっているのではとも考えた。