郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942)



武蔵野館で開催中の「ルキーノ・ヴィスコンティ 生誕110年 没後40年メモリアル イタリア・ネオレアリズモの軌跡」にて観賞。
同名小説は高校生の時に憑かれたように読んでいたのに殆ど覚えておらず、ヴィスコンティ版を見るのも二十数年ぶり。とても面白く、ヴィスコンティの映画は「愛」、換言するなら執着すること、されることについての物語なのだと改めて思った。私がとらわれるのも、映画としての「美しさ」ゆえもあるけど、そのせいなんだな。


映画が始まって、クレジットの間、貴族であるヴィスコンティがこのような映画を撮る時の気持ちを考えてみるも想像もつかず、またすぐ話に引き込まれる。オープニングは延々とポー川のほとりの道を走る車からの眺めだが、これは最後まで「水際」から脱出できず転げ落ちた二人の話のように見えた(最後に交わされる「これが人生なのね」「やっと出発できる」…)。作中もう一つの舞台が、川辺に倦んだジーノ(マッシモ・ジロッティ)が「海を見に行く」と発った先の港町というのも面白い。
取り調べから戻ってきた二人が足を踏み入れる家の澱んだ不穏な空気。この映画における「パーティ」は、ジョヴァンナが家の「窓を開けて」、無理やり周囲=普通の人々が暮らす田舎町と溶け合おうとする、あの日である。でもうまくいかない。


「どこがおかしいかすぐ見抜く修理工(メカニーク)」のジーノが部品…それはきっと老いた夫が無くした、ジョヴァンナの言う「あなたは若い」…を足すと、車、彼女はすぐさま動き出し、破滅へと向かう。「事故」の直前、ジョヴァンナは半ば無理やり、その運転手を夫からジーノへと交代させる。
スクリーンで見て目に付いた、映画ならではの小道具が「ベッド」。二人が初めて睦み合う、終盤ジョヴァンナが倒れ混んで「出会った日を思い出す」それ、再会してまた抱き合う簡易用にも見えるそれ、「ダンサー」のアニータの商売用の天蓋付のベッドでは、作中唯一、男女がきちんと横に並んで腰掛ける。ジーノと「スペイン人」のベッドシーン(と言おうか)もいい、「馬みたいな肩」をさらして「彼女は貧乏が嫌いだ」と言うジーノに、スペイン人はサスペンダーを外し靴を脱ぎながら「忘れることだ」。二人がベッドの対岸に腰掛け合う画の面白さ。


ジーノの顔が初めて映る、あの「衝撃」を表す女目線のカット。窓際に行きシャツを脱ぐとジョヴァンナが「馬みたいな肩」。終盤その肩をこちらに剥き出しに座っている彼の、あの弱弱しさはどうだ。これは「過激」な話ではない。原作もそんなような印象だし、ヴィスコンティのもそう、ただ男と女のどうしようもない話である。ここに描かれているのは、「一緒にいたい」とだけ思えば思うほど、そこから遠ざかってしまう二人の姿である。一度目の逃亡の途中でジョヴァンナがハイヒールを脱ぐ時、女には女の生活があることが分かる。この背景で人々が籾殻を蒔いている、すなわち労働しているのが印象的だった。
ジーノを演じるマッシモ・ジロッティは、私の中では、煮しめたような(多分そうであろう)ランニング姿で「男」を匂わせているという点で、「恐怖の報酬」のイブ・モンタンを思い出させる。彼がちょっと肩でもすくめて見せると、夫を始め「スペイン人」も誰も彼もが贔屓にしてくれる。


ジョヴァンナの、「歩兵隊仲間」と分かって歌いながら入ってくる夫と若い男を見ての、何も読み取れない表情、初めて抱き合った後の「いつ好意に気付いた?」との第一声、ああ、それしかないと思う。彼女が前のカフェでぐすぐす鼻を噛む様子や、アニータがジェラートの後に鏡で口元をチェックする様子には、それだってまあ「記号」だけど、ふと「リアル」を感じてぐっときた。