ウォルト・ディズニーの約束



TOHOシネマズ日本橋での初映画。座席数に比して大きなスクリーンや素晴らしい音響に満足。光に透けるエマ・トンプソンの頬の産毛や、「チム・チム・チェリー」のピアノの息遣いに胸がいっぱいになった。
映画はとても面白かった。原題は「Saving Mr. Banks」。作中のウォルトは何故「メリー・ポピンズが誰を助けにやってきたか」なんて簡単なことが分からないんだろう、映画「メリー・ポピンズ」を見ただけの私にも分かってるのに、と思った次の瞬間、なんて間抜けなんだ、それを「分かった」彼が作った映画を見たから私も分かったんじゃないかと気付く。



「これは何の匂い?」
ジャスミンです」
「いいえ、薬品と汗の匂いよ」


固く閉じた鞄に「サインしていない契約書」を入れ肌身離さず持ち歩いている、それがまさに作中の「トラヴァース夫人」(エマ・トンプソン)。サインしたくもないし、したくなくもないし、とはいえ手放すことも出来ず、何十年も「岐路」に立ち尽くしている。どこかには進みたいのだ。「アニメのペンギンなんて!」と「約束」を破ったウォルト(トム・ハンクス)を非難するその姿には、変な言い方だけど、期待通りの穴に飛び込む安堵感のようなものがある。
しかしトラヴァース夫人は最後には、「信じない」岸ではなく「信じる」岸を選ぶ。サインする時の表情のいいこと(ウォルトの「代わり」のミッキーの目付きもいい・笑)。そもそも彼女の根っこにはそちらに向かう素質がある。ホテルのテレビに映るウォルトを見た時の表情や、昼間は一喝した、父親を思い出させる「造語」をベッドで反芻する姿などにそう思う。


冒頭に挙げたセリフは、「天使の街」「いつも新しい街」ロサンゼルスに初めて降り立ったトラヴァース夫人と、専属運転手ラルフ(ポール・ジアマッティ)のやりとり。
トラヴァース夫人が「お砂糖ひとさじで」の歌詞に文句を付けるように、私も「メリー・ポピンズ」を初めて見た時、「魔法で片付けちゃうなんて」と思ったものだ。この映画はまさにそのこと…薬に砂糖を混ぜて飲ませちゃうのは、魔法で仕事を済ませるのを見せちゃうのは「よい」ことなのかという問題、すなわち「ディズニー映画」の根幹の是非を問う作品である。
前述のように、トラヴァース夫人は、納得して自分の小説にお砂糖を加えさせる(更に「飲んで美味しがる」)。それがこの映画の「答え」だ。ロンドンに帰った彼女を「追って」きたウォルトの語る身の上話が「真実」であろうとなかろうと、「嘘」を必要とする人はいる。人工的なジャスミンの匂いだって悪くない。その原料である「薬品と汗」の「汗」は、クリエイターの努力とも取れる。
実はトラヴァース夫人もそのことを始めから「分かって」いる。作中何度も、彼女の父親(コリン・ファレル)が「幻」について語る回想シーンがある。しかし彼が最後の「約束」を守れなかったから、彼女の心は宙に浮いたままだったのだ。


トム・ハンクス演じるウォルトは、必ず咳と共に登場する。終盤判明するその「理由」や、トラヴァース夫人が一瞬、全てを忘れて魅入られる眼力など、「ウォルト・ディズニー」の人となりが、出ずっぱりでなくとも多面的に描かれている。
話し合いの際にトラヴァース夫人に「アニメなんて軽薄」と言われ、作中初めてしんみりした音楽が流れるので、「アニメーター」の彼がどう返すのかと思いきや、その口から出る言葉は「愛するものを汚しはしない」。彼が「反論」しない理由は後に語られる。いわく「私にとってのネズミも家族同然だから」。ウォルトもまた「産みの親」であるということが、映画のポスターに表れている。完成披露会でトラヴァース夫人を迎えるのが、彼の「家族」であることにぐっとくる。彼女が見上げると、二人の「バンクス氏」の命を受け継いだ新たなバンクス氏の写真。


勿論、映画「メリー・ポピンズ」の裏話ものとしても面白い。トラヴァース夫人がディック・ヴァン・ダイクについて「名優だなんてとんでもない」で掴みは十分(笑)
作詞家&作曲家のシャーマン兄弟(ジェイソン・シュワルツマン&B.J.ノヴァク)による、作中の曲の数々の制作・リハーサル風景が見られるのも楽しい。銀行の歌で「昔」と「今」が交差する場面には涙。「チム・チム・チェリー」のみ、最初と最後にピアノだけのバージョンがただ流れるというのも憎い。対して音楽の無い場面はとても静謐で、音の良い映画館って「静けさ」の味わいも格別だということに初めて気付いた。
終盤には、満を持しての「メリー・ポピンズ」がスクリーンに!映画が終わっても動かずに、そのまま「メリー・ポピンズ」を丸々見たかった。