家族の肖像



岩波ホールにてデジタル完全修復版を観賞。
予想はしていたけど面白すぎた。20世紀の終わりに考えた「オールタイムベスト」には「ヴェニスに死す」を入れたものだけど、こちらに変更かな(そもそも「オールタイムベスト」なるものが数年しかもたないなんて、そりゃあ、分かってるけど・笑)


年末年始に「イタリア・ネオレアリズモの軌跡」と銘打たれた特集で初期の二作と「若者のすべて」を見たばかりなので、いきなり晩年の作品に飛んだら違和感があるかと思いきや、その精神は全然通じていた、いや晩年になって又繋がったと言うのが適切か。加えてシルヴァーナ・マンガーノバート・ランカスターの枕元での最後のセリフなど、自分が娘の年齢から彼女の年齢に近付いた今、その意味、あるいは彼女がそう言う意味がより「近く」感じられた。


本作には、ヴィスコンティの作品中唯一と言ってもいい類の仄かな笑いがある、少なくともほぼ満席の場内には度々起きていた。教授(バート・ランカスター)がドアに内側から掛ける鍵の多さ、ステファノの「(職人の相手なら)先生に任せればいいじゃん」に止めをさされる(その時にはそうとしか見えない)受難ぶり、家政婦エルミニアが「サイモン」のお喋りに驚く仕草など。尤も私が吹き出してしまったのは、そういう意図は全くないであろう、殴られたステファノがふっとんで机が折れるところだけど(笑・しかしああいう描写もまたヴィスコンティらしい)


ヘルムート・バーガーによるコンラッドの登場は、ただ不意に映るだけなんだけど、ついぞ「日本語」として聞かないけど、実に「ショッキング」である。テラスの下から彼の声を聞いた夫人ビアンカシルヴァーナ・マンガーノ)の顔色が変わり、娘リエッタとステファノと三人でテラスへ通じる扉に「閂をかける」も、いわば「裏」からするりと現れる。リエッタに「博打での借金」を暴露された際に彼女だけに向けてしかめる顔などにも、ヴィスコンティの「若さ」や「俗」への目配せのようなものを勝手に感じてどきっとした。


私はバーガーやドロンには魅力を感じないけれど、本作におけるバーガーの「どう考えても関わらない方が平穏でいられる」感は凄い。映画を見るとよく、これを男女逆でも見てみたいと思うものだけど、ヴィスコンティの映画にはそれがない。「男に対する夢」があるからだろう(例えビアンカが言うように「幻想だと分かっている」としても)。「女に対する夢」なら溢れているこの世において。


そしてシルヴァーナ・マンガーノの存在感たるや。ビアンカの「闖入」は、幾多の映画で見てきた「オートロックのマンションに誰かについて入り込む」のと同じようなものだが、そんな陳腐な描写は座っているだけの彼女の前に色褪せる。冒頭リエッタとステファノが絵を持って現れる時、夜中のベッドで起き上がったコンラッドがその手口を明かす時、そこに居ないビアンカの顔が脳裏に浮かぶ。その口から吐き出される言葉もいい、「空港は墓場のよう」「実業家が右翼じゃないわけがない」「(一人になるのは)辛いけどそれが一番」何よりラストの「死でもって私達を罰するなんて残酷だけど、私達は彼を忘れる、彼は若いからそのことを知らない」…


幾度も流れるフランコ・マンニーノによるテーマは、私には「不安ながらも足を踏み出したら、悪くなかった、それどころか楽しかった」とでもいうような調子に聞こえた。初めて流れるのは、冒頭ビアンカが勝手にテラスへ出る場面である。終盤教授が「あの日、夫人がやって来て」と語り始めることからも、この物語はあの時に始まったのだと分かる。作中唯一もろにコンラッドの視点で教授の顔がぼやけて映されるのに始まる、バーガーの顔が血塗れの一幕や、「クライマックス」の言い合いの一幕でも流れることから、教授は「最終的には」(すなわちラストシーンの際には)こうしたあれこれにつき、そんなふうに、すなわち「悪くなかった」と感じているんじゃないかと想像した。


年末年始の特集において、ヴィスコンティの映画には「パーティ」と「言葉でもって語られるテーマ」があると再確認したものだけど、いずれも本作にも見られた。前者は「老い」を自覚した教授が、彼に向かってしきりに「あなたは年寄りじゃない、魅力的だ」と言い続けるリエッタに誘われるも「行かなかった」パーティである(その「代わり」に、彼は「彼ら」を「家族」としてディナーに招く)。「テーマ」の方は、食後の諍いを描いた一幕でのやりとりがそれに当たる。「この作品で言いたいことは、言っていること全て」というやつだ。以前の作品よりもずっと複雑なんである。


私にとってこの映画が面白い理由の一つは、「独りを望み実行している者」と「憎悪の対象から盗みつつ生きる者」、どちらも自分の中にあるからだろう。とりわけコンラッドの孤独は、形は違えど「知っている」もののようで身に染みる。「初めてとある夫人のベッドに潜り込んだ時、涙が出て、それから必死にその世界にしがみついてきた」という生き方が、教授いわく「いつも一緒で仲がいいんだろう?」の二人には「君が死んだら売春婦が列を成す」「後に詐欺師とペテン師が続く」と茶化され、「社会」について話そうとすると「今はその話はやめて」と聞いてもらえないんだから。


少なくとも今の日本では、不動産の持ち主は最上階に居を構えているものだけど、映画では必ず自分が「下」で借り手が「上」である(「ビル」が舞台という作品があまり無いからというのもあるだろうけど)。本作でも勿論そうで、ダメ押しに教授は、何度も本で読み「自分の頭の上」に想像していた間借人の物語と実際に生きるあなた方は違ったと語る。映画のラストの「足音」を、彼はどう聞いたろう?もう「死」を意味してはいない、というふうに思われたのは、私が「そう思いたい」からなのだろうか。