君の名前で僕を呼んで



冒頭北イタリアの別荘にオリヴァー(アーミー・ハマー)が現れる場面に、「家族の肖像」が頭に浮かんだ。階の上と下というだけじゃなく、その場に女の子がいたから。エリオ(ティモシー・シャラメ)の作中最初のセリフ「侵略者だ」に不安げな顔付きをするマルシアエステール・ガレル)はしかし、ヴィスコンティ映画の少女とは随分違う。


私にはこれは、エリオの父(マイケル・スタールバーグ)にとっては二人ともboysでも、教え子に出来ることには限界があるという話とも取れ胸が痛んだ。最後の電話でのオリヴァーの「君はラッキーだ、僕の父なら矯正所に入れる」に振り返ると全てが違って見える。彼が到着するなりベッドに倒れ込み食事も取らず眠り込んだのは、エリオの両親が作った「場」に何かを感じて気が緩んだからかもしれない。翌朝父が言ったようにあそこで「生き返った」のかもしれない。


終盤、滝を目指して走りながら自分の名を相手に叫び合うシーンで(途中一度だけ、オリヴァーは振り返るのだった)分かったような気がした。それは父の言う「善良な」「相手に与えられる」者同士でのみ可能な、自分は世界と一体化できるという確信のための行為なんじゃないかって。エリオの「彼は僕を嫌いかも」の書き付けの「ME」が強調されていたのをふと思い出す。


言葉が明らかに二重の意味を持つ映画というのがあるけれども(最近では「8年越しの花嫁」など)、これもそうである。オリヴァーの「ここで何をしているの」「そこにいて、動かないで」。面白いのはそうした言葉を口にする彼が、他人のそれは曖昧にしておかないこと。息子に「口を閉じていられたらね」と言う教授に「それはその場で口をつぐんでいるということですか、秘密をばらさないということですか」。そこには彼の人生の歩み方が伺えるような気がした。


言葉の話をするならば、夕食を摂らない旨を伝えてくれるようエリオに頼んだオリヴァーの「Thank you」「Later」の、「後で」とは彼の口癖だとすぐ話題に上るが、「ありがとう」とは言った時点で遂行される言葉であるにも関わらず、彼のそれは「後で感謝する」と聞こえてならなかった。何につけ明確な意思でもってやるのだと。だからその後の、エリオのピアノに部屋から出て行き掛けたり入ってきたりといった行動がとてつもなく意味を持って感じられた。


あまりにエロくて震えたのは、「大人になれ、真夜中に会おう」とのメモをエリオが読んだ後に挿入される、教授の映すスライドを見ているオリヴァーの顔。率直に言おう、この人と…!ってやつね(笑)家族での昼食の席でエリオに何時か尋ねるオリヴァー、夕食後にピアノを弾くエリオにだけ姿を見せるオリヴァー、いずれも素晴らしくいやらしく撮れていた。


文化として面白かったのは、オリヴァーが「祖母にやってもらっていた」とエリオにする足裏マッサージ。私も男の人に何度かしてもらったことがあるけれど、それはあの10年、いや15年、20年後以降。日本との時差かなと思った。