ソロモンの偽証 後篇・裁判



公開初日、新宿ピカデリーの大きなスクリーンにて。満員の劇場で見ることにも大いに意味があった、客席はあの体育館の延長だから。エンドロールもあれでなければならない。
あまりに面白くて、見ながら、生まれてから見た日本映画の中で一番いい!外国に日本映画を出すならこれしかない!となどと思う(笑)


(以下、「事件の真相」には触れていないけど「ネタばれ」あり)


見ているうち、前篇の際には考えの及ばなかったことが次々と、複雑ながら鮮やかに頭の中に現れてくる。まずは観客が「中学生が『裁判』を行うことが可能か否か」と考えることが全くもってナンセンスであると分かってくる。
この「裁判」で行われるのは、「第三者」が「判定」を下すという現実の裁判とは全く逆で、「当事者」による「拘束力を持たない」語り合いである。裁判の形を利用することで「心の声」を表に出すことが出来るが、現実の裁判とは異なり物事を断ずること無く柔軟に扱えるという、いわばいいとこ取りの「夢の裁判」なのだ。このような「裁判」を実際に行うことはまず無理なので、作中の彼らが私達の代わりにやってくれる。地域の全員が「当事者」だということを画で見せられるのは、舞台が(公立)中学校だから。この作品は、非常に意味のあるフィクションなのだ。最後の「現在」の場面で校長(余貴美子)が口にする「あれからこの学校にはいじめが無い」という台詞は、教員なら決して言ってはいけない言葉だけど、「夢の裁判」の結果だからそう言っていいのだと思える。


いわゆる言い出しっぺの神原(板垣瑞生)の目的は「自分が裁かれること」。子どもも大人も、その「場」が「心の声」を語り合う場になるとは当初考えていないが、「裁判」の特別性は意識している、あるいは意識せざるを得なくなる。事前に「『そこ』でしか話さない」と言う者がおり、証言の最中に「こんな場を与えてくれて感謝します」と言う者がおり、子どもから「意外」なことを言われ当惑する大人がいる(藤野(藤野涼子)に虚を衝かれる佐々木(田畑智子)や皆から礼を受ける津崎(小日向文世)など)
ここで話し合われるのは「起こってしまったこと」についてである。神原の証言において、柏木(望月歩)が言う「人間と話すのは久しぶりなんだ」という台詞に、藤野達を優しく迎えてくれた両親を見ている私は、彼はなぜ家で口をきかないのか?(そもそもそれは本当のことなのか?)と思うが、映画はそれについて触れない。ただ、神原の「それでも僕は生きる」という言葉だけが響く。それでいいのだと思う。おそらく原作よりも「短い」ために、「過去」すなわち「原因」を描く余裕の無い映画の方が、この台詞がより強調されているんじゃないだろうか。


「裁判」に向けて体育館の準備をする生徒達の様子は印象的だ。舞台を雑巾掛けしたりパイプ椅子を拭いたりというのは学校の日常には無い行動である。開廷時にざわつく場内に対し「お願いします」と大声で呼びかけた松子の父(塚地武雅)に向かって、加えて「皆」に向かって検事と弁護人が礼をする姿や、閉廷時に係の生徒が「ありがとうございました」と皆を見送る姿に、ふと「教員が授業を出来るのは生徒達が授業を受けてくれるからなので、毎回感謝しなければならない」と言われたことを思い出した。学校には「礼」が必要である。
大出(清水尋也)が受ける「無罪」判定の二文字が含むものは、拘束力が無いがゆえにとてつもなく大きい。だから彼はあんなにも「変わる」(最後に藤野が倒れた時、彼はもう座ってはいない)。それは、弁護人である神原が被告人である大出を「問い詰め」たからこその結果である。あなたはあんなことやこんなことをしましたか、それではあなたがあんなことをされたのはなぜだと思いますか。彼を「陥れた」告発文について「あれは書いた人物にとっての命綱だった」と言う時、(この場面では分からないが、後に振り返ると)神原は自分が柏木の「命綱」だったことを踏まえて、すなわち柏木の心に寄り沿って話していると思われる。


全編通じて、大人の役者達の「分かりやすい」演技が映画を形作る中、前篇から永作博美演じる樹里の母についてのみ、その分かりやすさが癇に障ってたんだけど、彼女が最後の最後に曖昧な姿勢を取っていたのにぐっときた。娘の頭を抱えこみ「前」を見せないようにしていた、「傍聴席」で「並んで」座っている時は常に落ち着かなかった彼女が、初めて娘の背後から距離を置いて頭を下げる。私には、頭を上げられないのか礼をしているのか分からなかった。
前篇に「活躍」した大人達の出番が後篇では少ないけれど、あまり気にならず。例えば記者の茂木(田中壮太郎)など、冒頭の藤野とのやりとりでごくりと唾を飲み込む横顔のアップや、証言を終えて退廷する森内(黒木華)を追って「手ぶらで」出てくる姿で十分だった。


私はいつも映画の中の「文字」が気になるんだけど、本作では声の出なくなった樹里(石井杏奈)が自宅でボードに書く文字につき、まず腕と文字を捉え、彼女の姿に繋がる場面によって実際に演者が書いていると分かる。これが嬉しい(笑)
筆致といえば、松子の追悼演奏会のチラシも素晴らしい!私が「同い年」だからこその、あ〜ああいうふうだったなあという感慨だけじゃなく、丁寧さ、「リアル」さに松子の母(池谷のぶえ)の言葉が裏打ちされており、あの小道具だけでこの映画の素晴らしさが分かる。また誰が書いたか分からないのは同じでも、それゆえに恐ろしく感じられる書面というものもある。「彼ら」は「傍聴席」に居たのかと考えたけど、居ても居なくてもいい、そう思う。


前篇の時にはなぜ気付かなかったんだろう、14歳の涼子と「現在」の涼子(尾野真千子)は同じ髪型をしている。作中最後の「現在」パートに入る時、カメラは彼女をその、変わらないが少し変わったであろう頭から捉える。
このパートにおいて尾野真千子が喋る顔のアップは、ものすごく「表情豊か」で怖かった。対して(同一人物である)藤野涼子の顔は全然「動かない」けど、どちらが「雄弁」かというと、決して尾野真千子の方じゃない。校長が言うように、年を取れば大抵のことが出来るようになる(=顔を動かすことが出来るようになる)という解釈もし得るけど、それにしてもあの違いが私には恐ろしかった。