ゼロの焦点


新宿ピカデリーにて、公開二日目の最終回を観賞。結構混んでいた。
松本清張生誕100周年記念作品。被害者の妻を広末涼子、社長夫人を中谷美紀、その元同業者の受付嬢に木村多江


(有名な作品なので、色々ばらしてます)



19世紀末が舞台の「シャーロック・ホームズ」シリーズにおいては、「結婚前に他人に宛てたラブレター」をめぐる事件が頻発する。今の感覚じゃぴんと来ないけど、実際にそんなことがあったかどうかはともかく、グラナダのドラマなど観ると、すんなり入り込める。ある「社会」をリアルに感じられれば、その中で起こっていることは自然に受け止められる。むしろ現代の日本が舞台の作品のように「自分なら…」なんて考えないから、観易い。
今作では、日常生活で見慣れた面々が、「パンパン」がキーとなる話を演じる。原作が書かれた時代の雰囲気を感じられなければ、なぜそんなことで人殺しを?と違和感を覚えてしまうだろう。


記録映像や新聞記事でもって当時の世相を伝えるオープニングには、少し白けてしまった。それに、杉本哲太が火鉢の石でタバコに火をつける場面や、警察署でハンコ台がくるくるしてる所など、当時の風俗をああして大げさに撮るのは、好みじゃない。
語り手である広末涼子が、始めはパンプスで滑っていた冬の金沢の町を、長靴で歩き回るようになるに及び、謎解きやサスペンスを期待したけど、そちらもあまり満たされない。キャラメルの箱を拾う場面には拍子抜けした(笑)


今回の映画化には、原作にも野村芳太郎監督の映画版にも無かった「女性の社会進出」というテーマがある。「元パンパン」の社長夫人が、「初の女性市長」の誕生に向け尽力している。そして、夫人を演じた中谷美紀が、そのテーマを妙な形で盛り上げている。
彼女の演技は全編大仰なので見ていて疲れるけど、この映画においては、その存在自体が「女と女のつながり」…セックスする相手、生活を共にする相手は男であっても、女が分かりあえ、支え合えるのは同じ女だけ…というメッセージを、(その正否は別として)強烈に訴えている。とりわけ、帰京する広末涼子を抱擁して送り出す場面や、何も知らない木村多江を車に乗せて走る場面では、ほとばしるようなものを感じて圧倒された。
最後の選挙事務所でのシーンは、ひねくれた見方かもしれないけど、「パンパンなんてせず、耐えて大人しくしていた者が、幸せになれる」と言いたいかのようだった。実際にそういう側面もあったことを表してるのかもしれない。


木村多江の垢抜けない女ぶりは、鼻の下に、生えてないはずの産毛のヒゲが見えるようだった。
社長役の鹿賀丈史広末涼子を眺めての「あなたの所へなら帰ってくる」のセリフには、吐きそうなほどムカつかされた(いい役者ってことか・笑)。野村版の、哀愁漂う老人という感じの加藤嘉とは全然異なるタイプだけど、どちらも違う意味で、パンパンとかそういうことを気にするように見えない。夫人としては、自分の気持ちの問題なのかな。


残念だったのは、駅や列車は出てきても、「移動感覚」がなかったこと。地図を指で辿って、長い時間を電車やバスに揺られて行く…そういうのがなきゃ。久我美子金沢駅から散々乗り継ぎして「ヤセの断崖」のある港町まで出てたけど、今回はあっという間に着いていた。何か設定が違ってたのかな?


(SLに乗るシーンは大井川鉄道で撮影したらしい。昨年末の旅行の記録


追記…こういう話はどうかと思って書かなかったけど、私が「ゼロの焦点」において最も印象的なのは、主人公の禎子が新婚旅行先で夫から掛けられる「君の身体は若いね」「君の唇は柔らかいね」という言葉。過去をほのめかすキーとなるセリフで、いずれの映画でも取り入れられていた。もし私が誰かと触れ合って、こういうことを感じても、それを口にするのははばかられるものだけど、当時の男性は、自分の側が評価や感想を述べる立場であるのが当たり前で、悪意もなかったんだろうなあ。薄気味が悪くて、小説や映画においては、よい味付けに感じられる。ついでに作中の禎子が、この言葉を「誰かと比べられてるみたい」というふうに受け止めているのが、私からすると、そういう問題か?と思ってしまう。


その他、今回の映画については、回想シーンで佐知子が「女がこんなことをしなくてもいい時代が…」というようなことを言うけど、そういうふうに哀れさを強調するのってどうなのか?とか、鵜原の「生まれ変わりたい」という思いがあまり表現されてなかったなあとか、色々話せばキリがない。