眠れる美女




「明かりを消して、黙ってることだな」
「私に消えろというのか?」


2009年、「エルアーナ・エングラーロ」事件によりイタリア国内に「尊厳死」の賛否をめぐる対立が起こる。保守層を支持基盤とするベルルスコーニ首相は、当の家族の意思とそれを認めた最高裁の判決に背く延命措置続行の法案を強行採決しようとしていた。本作ではそうした状況下における三つの物語が描かれる。
考えたらどれも「複雑」な話じゃない。何も起こっていないんじゃと思われるパートもある。しかしその中における人々の感情とその変化はあまりに様々だ。


国会議員ウリアーノ(トニ・セルヴィッロ)の娘マリア(アルバ・ロルヴァケル)は、エルアーナ・エングラーロの延命措置停止を請け負ったウディネの病院に反対デモのため出向く。道中のカフェにおいて、彼女を「それ」と認めた青年が顔に水をぶっ掛ける。青年の兄ロベルトが彼女の顔を拭き、謝り、電話番号を残して去る。マリアいわく「今、何が起こったの?」(このセリフがいい!)この「boy meets girl」の描写の鮮烈さに驚き、これはきっと、それこそが「死」のみが持つ特別さの所以だからだろう、と思っていたら、本作はそれを越えたところへ着地する。彼女は恋を、いやこれまで知らなかった感情を「知る」ことにより、盲目状態…この場合、考えなしにキリスト教徒であること、その教えに反する父の行為を許せずにいること…から脱するのだった。駅のホームで抱き合う親子を見た後に振り返ると、ベルルスコーニの「家族の身になって考えてみた」という演説の何と空疎なことか。


イタリアにおける「重要」な二日間ということもあり、冒頭から誰もがテレビのニュースを見ている。作中何度も映るテレビの画面のうち、ニュース番組じゃないのはロベルトがマリアを伴うホテルのロビーにおけるサッカー中継と、元女優(イザベル・ユペール)の植物状態の娘の父が見るネイチャー系の番組。彼が体制のゆくえに興味を持たないのは、息子に言うように「妻(元女優)に必要とされておらず、部外者で、居場所が無い」ことを自覚しているからだろうか?その態度からは「今の女」との関係も窺い知れる。もっとも映画は、体制下の誰の感情も言動も、批判的には描かないけれど。
女優の息子は「ママの邪魔をする姉さんは死ねばいい」「ママを死なせたくないから自殺を防ぐために精神病院に入ってほしい」などと口にする。変な言い方だけど、人の気持ちとは何と妙で面白いものか。これを思っても、上段同様にベルルスコーニの言葉が馬鹿馬鹿しく感じられる。


妻の延命装置を自ら停止させた過去のあるウリアーノは、延命措置を続行させる暫定法案に賛成票を投じねば「ならない」ことに悩んでいる。テレビ出演をしない彼に対し精神科医が言うには「議員はテレビに出れば、政党という劇団で役を演じている気になれる」「テレビに出ない、もしくは出られなくなった議員は鬱に陥る」。しかし彼に必要なのは「演技」では無く「本心」を表に出すことだった。それゆえ彼は「本心」を述べるための練習を秘かに続ける。
一方、元女優が自宅で鏡の前を通るたびに自分を見るのは、「演技」を必要とするもいまや「見られる」ことの無い彼女が、「聖女」を演じている姿を確認することで正気を保っているのだと考えられる。最後に、エルアーナ・エングラーロの死とそのことにより法案がうやむやになりそうな旨のニュースを見た彼女はメイドに鏡を全て片付けるよう命じ、娘の眠るベッドの横のソファに身を沈める。そして夢の中で「演技」に没頭するのだった。


映画の根底に流れるのが、薬物中毒の女性ロッサ(マヤ・サンサ)と青年医師パッリド(ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ)の物語。マリアも元女優も、あるいはあらゆるところに「眠れる美女」(=目覚めていない者)の存在がありえると映画は示唆するけど、ロッサは文字通り「眠れる美女」を体現して本作を締める。
自分から金を奪おうとしたあげく目の前で手首を切って死のうとしたロッサをパッリドが救う。目覚めて再度の「自殺」も阻止する。彼が彼女の「何か」を感じ取れた時点でもう他人じゃない。最後にパッリドが「目を開け」ていたカットには胸を撃たれた。ロッサが「窓を開ける」ことは「私は死なない」というメッセージであり、入ってくる雑音に「外の世界」との繋がりを感じて私自身がほっとした。