火の山のマリア



2015年、グアテマラ=フランス合作。グアテマラ人の監督による、自身が幼少時を過ごした「マヤ文明の地」を舞台にした映画というので興味を惹かれ出向いてみた。


オープニングはおそらく「マリア」(エンドクレジットによると本名も同じ)であろう少女がこちらを見ている顔のどアップ。何やらハレの日の装いを施されている。そうだよね、顔をあれこれいじられると目がしばしばするよね、と思うがその内心までは分からない。
次いで泣き叫ぶ豚のアップ。マリアの母親のフアナが種付けに引っ張って行き、「その気になる」とラム酒を飲ませる(これが後のマリアの行動に掛かってくるのが面白い)共に働くマリアの髪形の違いから、これが彼女の「ある日」ではなく「日々」の様子なのだと分かる。フアナが彼女の体を洗い、服を着せ、髪を整える。中盤、マリアがそう感慨もなく「置いて」いこうとした両親が、これまでだって毎日一緒だったはずなのに途端にひどく身近に感じられるのは、お話の上での都合じゃない、そんな体験はないけど、きっとそうなのだと思わせる。後半、もう一組の「親子」がスクリーンの中に見えた時にははっとした。


マリアは父親のマヌエルが小作人として働く農園の主任であるイグナシオとの結婚を控えている。冒頭に開かれる両家の食事会では、本作で提示される数々の「問題」のうち、まずは「今の日本」にも全然ある女性差別が描かれており、息が苦しくなる。「若いから恥ずかしがっているだけ、本当は望んでいます」の後にマリアの表情が変わり、場面が替わる。後の酒場の場面(マリアは「外」で男を待つ)で、女が「やらせろよ」などと言われるところに楽し気な音楽が流れているのも、音楽に「罪」は無いのに呑気なもんだと思ってしまう、「何も考えず」には楽しめない。
抑圧されている女が常に悲しそうな顔をしていたり泣き叫んでいたりするとは限らない。作中のマリアが苦しそうな顔をするのは、初めてセックスする時だけ。性欲が無いわけではないしセックスを大層に捉えているわけではないけれど、痛い時には普通に痛い顔をする、それを見せる、いい映画だと思う。


前半、ふと昔のカウリスマキの映画を思い出した。マリアが仕事帰りのペペを待ち伏せ必要最低限の会話を交わす場面や、資本家であるイグナシオの事務所の前に男達が列をなし、酒代を前借りしたんだから賃金は払わないと言われた一人が怒り出す場面や、家族三人が蛇を追い払おうとあることをするが失敗し、家の前に座っているカットに移るところなど。参照した映画技法が同じだからなのかなと思う。
尤もこの映画の場合は、変な言い方だけどその拾い方が広く浅くといった感じで、例えばマリアの「アスファルトで舗装された道路」までの逃亡や赤ん坊の葬列の遠景、両親がマリアを手押し車に乗せ火山を下りトラックで町へ出て、病院へ入るまで(彼らが院内のあれを手押し車と同じように使うのが面白い)の、彼らを背中から追う手振れた映像など、いかにも映画らしいものがたくさん見られる。


マリアによれば「ここは火山とコーヒーの匂いがする」そうで、想像しながら見ようと頑張るも難しかった。「火山を越えれば別の国」というのと、フアナにとっては何でも「コーヒー」が基準であるのが面白く、娘はいい嫁になるかと問われれば「娘の育てたコーヒーは素晴らしい」、堕胎薬を飲んだ娘が吐いているのを夫が訝しがれば「コーヒーのせい」、言葉の通じない役所の調査員にも勿論すすめる。
本作で最も強調されていることの一つは、公用語であるスペイン語が話せないマヤ人に対する差別、というか彼らが教育を受けていないことによる問題である。教育を受けずにいると、余計に教育を受けなくなるという悪循環。アメリカに渡ろうとしているペペにマリアが「英語より先にスペイン語を勉強すれば?」と言うと、「だからこの国はダメなんだ」と返される。彼のようにアメリカを目指した人がその後どうなるかは(酒場でも揶揄的に語られているけれど)きっと他の映画で見られる、のだと思う。