メルー中央峰、通称「Sharks Fin(鮫のヒレ)」を直上するダイレクトラインの登攀という「超人的」なスポーツが記録されているのにこんなことを言うのも変だけど、数多の山岳ものの中でもとても見やすく、親しみやすい映画だと思った。作中のジミー・チンの言う通り、山なんて「そこに居た者しか分からない」ことばかりに違いないけど、山岳写真家としても有名な彼が製作、監督、撮影を手掛けたこの作品は丁寧に書かれた手紙のようで、これが登山家が見せたい、見てほしい、山の映画かと思った。
いわゆる既成曲としてエディ・ヴェダーの「The Wolf」(解説者として登場するジョン・クラカワーの「イントゥ・ザ・ワイルド」から?)などが使われる中、二度目の登頂時の「晴れ間」に流れ始めるホセ・ゴンザレスの歌声がとても合っていた。
コンラッド・アンカーは「山に登るのは景色を見るため」と言うが、この映画は登山家の目に映るまさに「絶景」から始まる。その場を遠くから、すなわちより「客観的」に捉えた中に小さな小さな何か…コンラッド、ジミー、レナン・オズタークの3人の「存在」を示した画に次いでタイトルが出る。何度か挿入されるタイムラプス写真は、白壁にはりついて動く三匹の蝿を追っているようにも見える。レナンとジミーそれぞれのアクションカメラによる「事故」の映像は「本物」だろうか?
クレジットの「additional」には多くの名があるが、メインの撮影者はジミーとレナン。上っている最中のものはどちらかが撮った映像というわけだ。一度目の登頂時のレナンの手によると思われる(ジミーが映っていることからそう推測される)映像は、途中から「当然下りるものと思っていたのに二人が上り始めて驚いた」彼が撮ったのだと思うと面白い。対照的に二度目の登頂時の映像は、「下りたくない一心」のレナンの目に映っているものである。
「Meru」「mentorship」「risk」などのいわば「キーワード」が三人の口から出てくると、「コンラッドと(彼のクライミングパートナーの)アレックス・ロウと三人で南極大陸のラッケクニーベンを登った」こともあるジョン・クラカワーが、それを外側から補強するように語り直す。さすがの説得力である(笑)
クラカワーによれば「メルーはエベレストとは真逆」。「シェルパなし(なので90キロの装備を全て自分で背負っていかねばならない)」という文脈で出てくる言葉だが、考えたら面白い。冒頭はそれが頭にあるせいか、映像においてコンラッドの腰の重装備、というだけじゃ言い切れないような道具の数々が強調されているように思われ、これこそが「メルー」なのかなとも思う。
再挑戦について考え始めた時を振り返るコンラッドの「僕には三人の子どもと妻に対する責任がある」との言葉と家族写真の後、始めから出てきていた妻のジェニー(・ロウ・アンカー)と子が、車上生活を送っていた彼がアレックスからいわば「受け継いだ」ものだと分かる(特に子どもについてはそう言ってもいいだろう)。現在のコンラッドとジェニーのインタビュー映像に、アレックスを亡くした際にコンラッドがテントから彼女に電話している(ように見える)映像が挟み込まれる妙が、ドキュメンタリーの醍醐味である。
作中には二人の「妻」が出てくるが、レナンの妻の「私の知らないうちに彼は航空券を買ってた」に私にはそういう関係は無理だと思う一方、かつて自分も登山をしていたというジェニーの「誰も登っていないなら登ってみたいよね」なんてシンプルな一言に、そうかもなあ、なんて思ってしまうのだった。