フリーソロ


面白かった、ドキュメンタリーの普遍と特殊がここにある。お馴染みジミー・チン(妻のエリザベス・チャイ・ヴァサルヘリィと共同制作、兼監督兼撮影監督)の「僕らの撮影がアレックスに影響を与えることはないと自分に言い聞かせていた」(続く言葉は「断念するとは想定外だった」)に、もしかしたらあらゆる映画で隠されているのは撮る側の動機かもしれないと考えた。

撮影隊いわく「ロープの操作ミス一つでアレックスを殺してしまうかも」。殺すかも、殺されるかも…いや死ぬ瞬間を撮られるかも、と互いに思いながらの撮影は、そりゃあアレックスの言うように「人はいつ死ぬか分からない」わけだから全ての映画に言えるんだけれども、特殊が過ぎる。大体一番の「見せ場」でカメラマンが殆どカメラをのぞいてない(怖くてのぞけない)んだから(でもってその姿を他のカメラが捉えているんだから)。

「練習によって『可能』の範囲を広げる」なんて、やはり山映画には全てに通じることが描かれているなと思いながら見ていたら、アレックスは「それを撮影隊がいても…にまで広げる」などと言い始める。なんて愚直な、いやいい言葉が思い浮かばないな、そんなにしてやることはないのに、撮らせることはないのにと思ってしまった。「『寿命』まで生きる義務はない」と他人が考えるのは自由だけども、どうしても、命には在ってほしいと願ってしまうから。

上映前にジャック・マイヨールのドキュメンタリー(二年前のTIFFで上映された作品だそう)の予告が流れたのが面白く、そこで聞いた「完璧に計画しても(東京の教員用語で言えば「内心での実踏」というところか・笑)水中では想定外のことが起きる」を思いながら見ていたんだけども、フリーソロというのはまた全然違うんだなと分かった。マイヨールは日本文化に関心を持ち座禅などもしていたけれど、アレックスも「靴を履く時には刀を抜く侍のような気持ちになる」と言っていた。これもまた、少し違う感じか。