金子文子と朴烈


オープニング、「犬ころ」を朗読する金子文子(チェ・ヒソ)の声が、料金を足元に放って寄こした客に残額を請求し蹴り倒される朴烈(イ・ジェフン)の姿に重なる。そんな目に遭っていても彼は「この国の民衆は好きだ」と語る。どの国がどうというんじゃなく権力を憎み復讐する話である。それに作中の朴烈のセリフにあるように「祖国を侵略した国の皇帝を憎む」のは当たり前のことじゃないか。

映画は冒頭、不逞社の会合において文子に「アナーキストとは自分の意思のみによって行動する者」と言わせて定義を打ち出し、それを元に展開していく。ちなみにその前に発言するのが同じくメンバーの初代で、「何が私をこうさせたか」によると、貧困や虐待により幼少時より同性との仲を何度も断たれている文子が生涯で唯一友情を育めたのが彼女である。思想の違いにより初代が早々と退場するのは仕方ないが、同じ属性の者が少ないほどそこに全てが負わされるもので、本作では文子が極めて「女性」的に、「紅一点」的に描かれているようにも見え残念に思った。

詩でもって「この男だ」と確信した文子は、仲間に朴烈の名前の発音を習い声を掛ける。「配偶者がいるなら同志でいい、いなければ同居しよう」。彼女はこの一幕の最後に「私もアナーキストだ」と言うが、互いにアナーキストだからこそ二人が性的に惹かれ合っているのが面白い。「私について何か聞いたか」に「『何を言っても傷つけるだろうから彼女の判断に任せる』と言っていた」と返された文子がにやりとしたり、法廷で一説ぶつ彼女を「なんていい女だ」とでもいう顔で朴烈がちらと見たり。作中唯一のいわば肉体による性的な場面は二人が社会に見せつけてやるあれだ。

本作では二人の愛は、判事の取り調べや看守への対応といった別々の、しかし確実に「宣誓」を守っている時間によって紡がれる。離れているのに変わりはないのに裁判が終わった後には停滞した気配を感じるのは、人間社会への理想を持たない文子にとって自身のやるべきことがあそこで済んだからだろう。大逆罪で裁かれるなら死んでもいい、死にたいと言うのは当人だけで周囲の人間はみな文子と朴烈を死なせまいとするが、二人の死の覚悟の背後には死んだ人々、これから死ぬかもしれない人々がいる。その事実の前に、判事や看守が「そういう生い立ちならそう考えても仕方ない」と寄せる同情のなんと無意味なことか。

上映後のトークで明るさは韓国の、理想主義は監督の特徴だと聞いたけれども、まさにそういう映画である。しかし、レイシストに文子がおでんの汁をかけ朴烈が「時代遅れのサムライめ、まげを切ってやろうか」と刃物を持ち出す姿が痛快に描かれても、冒頭彼が蹴られていた姿を思い出し心が沈んだままだった。「地震によって皇太子殿下が守られた」なんて言い草に軽妙な音楽が流れる(笑いを誘うべく撮られている)のにも先日の「オリンピックの神様」なんて政治家の発言を思い出してしまうし、「私を凌辱しろ、日本の野蛮さとお前の名前を国際社会に知らしめてやるから」と文子が服を脱ぐのにもうまくいくものかと懸念してしまう、現実が暗いもんだから。いやこの気分こそ、作り手の言う洗脳なのだろうか?