トリとロキタ


オープニング、ビザ取得のための面接を受けているロキタ。次第に答えに詰まりパニック発作を起こす。程なく私達には彼女の話していたことが全て嘘だと分かる。こうした類の「嘘」や発作はこれまでの映画であまり見たことがない。小柄なトリの、道路の向こうにロキタを見つけすれすれに走って渡ったり自転車で駆けたり、上ったり飛び下りたりといった運動は新鮮だ。作中の町の人々(=映画の観客)、いやもっと身近な人々でもトリとロキタのような存在を一ミリ程度の穴からしか見ていないだろう、それならこっちから拡げてやるとばかりに代弁者が向こう側から穴をぐいぐい拡げてくるといった感じの一作だった。

「迎えに来たの?」「会いたくなって」。ママがいてくれたらと17歳のロキタは口にするが、実際の母親には金を独り占めしてるんだろうと責められるのみ。だから彼女のママは12歳のトリだ。二人には二人しかいないのに、その関係について誰も真実を知る者はない、この矛盾。面接に付き添っているスタッフだって施設の他の子達だっておそらく。自転車を借りているナディア(「私が施設を出る時に自宅の番号を教えてくれた」…ということは保護者の元に帰れない事情があるんだろう)に電話をした後のトリの「嘘は嫌だけど仕方ない」、そんなことが山程あるんだろう。

冒頭、トリとロキタはレストランで10分歌って5ユーロ稼ぐ。「ボートでシチリアに着いた時に教えてもらった」とイタリアの歌を歌うので客は二人の事情を知って聞くわけだが、それ以上のことを想像するだろうか。そんな「表向き」の仕事で稼いだお金では全くもって「普通の暮らし」へ続く道へ出られないので、まだ子どもの二人が作中殆どの時間をかけてするのは薄氷を踏むような裏の仕事ばかり。ラストシーンでようやく「表」に出ることとなる。トリが読むあの素っ気なく聞こえる文章、表から見れば二人に起こったのはほんのあれだけのことなのだ。

密航を斡旋した仲介業者はロキタの下着の中まで手を入れて金を取り上げておきながら弟の学費と言うと少し返してくれる。運び屋の元締めであるシェフのベティムはフォカッチャを持ち帰るのに箱がほしいと言えば取ってくれる。「情がある」わけではなく彼らはそこまで切羽詰まっていないのだ。選択肢のない、言うことを聞くしかない相手に嫌がらせをして楽しんでいるに過ぎない。やりとりの中で男に気ままに殴られるロキタ。

男がベルトを外す音が、それだけでは意味などないはずなのに作中のような被害を受ければ以降は嫌悪感を催させるように、トリとロキタには(二人に同調して見ている私達には)人影や車の音が恐ろしくなってくる。それでも時に救いを求めねばどうしようもない。最後のヒッチハイク、一台目には途中で去られ二台目には端から無視され三台目には…この場面自体が私には二人の境遇の比喩のように思われた。