天国でまた会おう


物語はモロッコ憲兵支部において一人の中年男性が手錠を掛けられるのに始まる。これもまた私の集めている「ある人物の語り」形式の映画だが、この男、アルベール(監督兼主演のアルベール・デュポンテル)が平凡で実直な印象なものだから、映画の作りもそうであることが減点にならない。その中で美しく悲しく数奇なのが、彼の物語をそうさせるのが、ただエドゥアール(ナウエル・ペレーズビスカヤートエ)なのだと思わせる。

しかし一方で、エドゥアールこそがいわば人間の原型であり、他の者達は生きるために何かを身に纏っているのではないかという気もしてくる。香水の匂いが分からないアルベールの鈍さ、バスター・キートンまがいの彼を始め家へ入れないポリーヌ(メラニー・ティエリー)の愚直さ、言うなれば白い服を着て「使用人に掃除をさせよう」なんて植民地へ向かうような人間でなければ生き延びられないのだとでも言うような。私なら何でもってこの世を生きていると言えるだろうか。

この物語が糾弾するのはいわゆるお上である。戦争と言う名の殺人が確かに行われる現場で殺人者を描いてみせるエドゥアールは以降ずっと死への傾斜の途中に自らあるように見える。最高潮に達するのが「戦争を始めた罪」「戦争をやめさせなかった罪」「戦争を利用した罪」で奴らをシャンパンの栓とパイのクリームで「死刑にする」場面。あれは、あれ以上のことは出来ないという描写なのだから。エドゥアールが「奴ら」の末席とした「パパ」は結局は権力を行使するクズでもあるが(娘婿に「汚い仕事」をさせていたようだし)そんな人間でも人を真に愛する。彼のジャンプはその矛盾からの逃亡に思われた。

メラニー・ティエリーがメイド役の本作の舞台が第一次大戦後、デュラスを演じた「あなたはまだ帰ってこない」が第二次大戦中。どちらにも駅のデスクに帰還兵が殺到する場面がある。前者は役所の手続き、後者はデュラス達による家族のための兵士の名の収集と状況は異なるけれども。通りすがりのふりをして声をかけるアルベールと柵のこちら側のポリーヌの場面にはふと、後の時代の私達にはどうしたってこれは大きな戦争と戦争の間の束の間の静けさに見えてしまうということを思った。

物語の終わり、プラデル(ローラン・ラフィット)が殺した兵士の名前は?問われたアルベールが即答するのが妙に心に残った。そもそも話の始めにだってすぐ口から出てきているんだろうけど、戦地で殺された者の名前や人となりが誰かの頭にこびりついている、それがとても重たいことに思われた。