ランド・オブ・ホープ


フィンランド映画祭2019にて観賞、2018年/フィンランド/マルック・ポロネン監督作品。今回見た「アウロラ」(感想)と本作、舞台は全く違うけれど共にセックスにおける女の意思と逃避のための酒の害悪がはっきりと描かれていた。立ち退き要素があるのも同じか。前者で主人公の友人キンキーを演じていた、飲み屋で靴を脱いで臭いを嗅ぐ姿が印象的だったオーナ・アイロラがこちらでは主役。

この映画は北カレリア地方が舞台だが、ちょっとした自然の描写や主人公アンニが悲嘆にくれて実家に帰るくだりなど、同じユーロスペースの「アキ・カウリスマキが愛するフィンランドの映画」特集で見た「夏の夜の人々」(1948年/ヴァレンティン・ヴァーラ監督)が脳裏をよぎった。尤も本作の終盤、激しい雨の後にアンニが窓を開けて「ここが私の生きる場所だ」と悟る場面は、「夏の夜の人々」の始めに窓の外から内にカメラが引いていく鮮烈さにはかなわないけれども(あちらは元より彼らの場所だから「引いていく」のだと、こじつければ言える)。

冒頭、使用人かな、と思いきや一家の長に朝食の給仕をする母と娘達であった。パン職人だった父親は裕福な生まれの母の資産を元手に会社を起こし、父として経営者として君臨している。その抑圧にうんざりしていたアンニは、ソ連との継続戦争を大きな傷を負って生き延びたヴェイッコと馬(名前を忘れてしまった、何だっけ…)と共に北カレリアの開拓地に移り住む。二人きりで裸になって水に飛び込む彼らの姿には、家にはなかった自由がある。しかしこの土地には人間のためのものが何もないという過酷さと、そうは言っても存在している共同体における多少の窮屈さとがある。そこのところをこの映画は、シンプルなやり方、全ての登場人物の根に善意があるという設定で乗り越えている。

遅ればせながら今年、フィンランドの男達がカメラの前で語り合う「サウナのあるところ」(2010)が日本でも公開されたものだけど、本作には、サウナも使い様で抑圧の種になるということが描かれている。父親はアンニを「男のつもりか」「商談はどうする、サウナで飲みながらやるんだぞ」とオフィスから追い払う。ヴェイッコは思いがけず再会した戦友を、その場にいたアンニに断りなくサウナに誘う(「一言聞いてほしかった」「入ったら掃除してね」…と言うのだから、サウナの掃除は彼女が担っているか、あるいは汚れを彼が気にしないのだろう)。「お前は自分ちのサウナにも自由に入れないのか」なんて戦友のセリフ、陳腐な言い方だけどどこも同じだと思わせられる。