
「ペルーの公用語の一つであるケチュア語の映画としてペルー映画史上最高の興行収入を記録した」との宣伝文に惹かれて見に行ったんだけど、それこそが一番の肝だった。自分の言葉の物語を欲する話、それを映画の中でも外でも実現する話なんだから。
アンデスの小さな村、子ども達を荷台に乗せて走る車への少女の「待ってー先生!」に、移動手段が他にないので当然の、子どもと先生が一緒の登校風景に引き込まれた。開放的な作りの学校には中年女性の先生が一人、子ども達はその元に国旗を揚げてわれらは自由、これからもそうだとスペインからの独立を確認する国歌を歌う。授業では朝イチで分厚い法律の本の、子どもには保護を受ける権利、暴力や搾取から逃れる権利があるとの文を読む。このような教育をしている先生が映画を肯定的に捉えているのだから、この映画自体も映画というものを政治的に位置づけていると分かる。
主人公の少年シストゥの姉は都会へ出て戻って来ず、町へ出掛けた父親が聞くと「もうスペイン語で喋ってるよ」。公用語じゃないけど韓国や日本にとっての英語みたいなものだ。父親はシストゥが学校へ行くと村を忘れると…つまり教育を受けず村の子ども達がずっとそうしてきたように早くから働けと言い、母親は学校へ行って医者になり村の役に立ってほしいと言う。晩に夫が「抱こう」とした際の(この時のおまえの髪は闇のよう、頬はりんごのようという文句は慣用句的なものなのか?)妻の嫌というより悲し気な表情が心に残った。また町の男がこの父親に言う「女は待たせておけばいい」なんてセリフは、「進んだ」社会でも、あるいはこそ、女性はより虐げられると言っているようだった。
シストゥが町の移動映画館で『ドラゴン危機一発』や『魔人ドラキュラ』を見る時、この映画は壁に映し出されるブルース・リーやベラ・ルゴシの目をまず映す。マイケル・ケインが著書で役者とは自分の瞳が何メートルにもなる職業だと書いていたのを何かにつけ思い出すが、映画が初めてならあれが衝撃かもしれない。しかし「写真が動く」のを見るだけでは人は満足できず、スペイン語を学んでいない大人達は話が分からないと帰ってしまう。とはいえ自分達の知らない物語の存在に気付けばそれを無視することはできず、シストゥに「村の映画館」になってもらうのだった。これには物語というものの意義と、様々を日本語に翻訳して伝えてくれる職業への感謝を思った。