風をつかまえた少年


「school, library, Using Energy, I tried and I made it」。TED Globalでのウィリアム本人のスピーチのうち、本作が特に重視する言葉はこれらである(とエンドクレジットにて分かる)。作中唯一私が涙をこぼしてしまったのがその結実する場面であることからしても、確かにこれらの物語である。しかしそれだけじゃない、族長の言う「小さき者が弱味に付け込まれた時に出来るのはただ一つ、NOと言うこと」、その際ともすればばらばらになってしまう人々を繋げ助けるのがそれなのだ、という話である。

始業式での校長の「我が校には予算がないが、君達の熱意が学校のレベルを上げる」「成功者は頭が二つあったわけじゃない、努力したのだ」に日本の悪人のようなことを言うと思っていたら、この映画における学校はまさに悪政の現場として表現されている。国が教育費を出さないため学費を払えない者は図書館も使えず即退学、理科の授業に潜り込んでいたウィリアムを校長は「他の生徒の家族や教師のお金を盗んでいるようなものだ」と非難し追い出す。日本でよく聞く理屈じゃないか、貧乏人は勉強するなというわけだ。

冒頭のウィリアムの叔父の死は、振り返ると「雨乞いに頼った世代」が遂に倒れた瞬間のようにも思われる。父トライウェル(キウェテル・イジョフォー、兼監督)は母アグネス(アイサ・マイガ)に「雨乞いをしないこと、子どもを学校にやること」を約束させられているが、正直で人を疑うことを知らない彼は「政府が助けてくれる」「この飢饉さえしのげば大丈夫」と受動的な立場から動こうとしない。政府の横暴を目にし変わってはゆくが、いよいよとなれば干上がった畑と格闘している最中に「学校に行ったぼくは父さんの知らないことを知っている」と言われ息子を殴り倒してしまう。

母が父にさせた約束と彼女の「雨乞いをしていた頃は助け合っていたから生き延びられた」とのセリフを合わせるとこの映画の導く正解のうちの一つはこうだ、「文明が発達した今じゃ雨乞いなんてしていられない、しかし助け合いは今でも、今だからこそ必要だ」。女だけの家から食糧を奪われる場面などで、キリスト教、いや神が時に何の役にも立たないことが訴えられている。娘アニーの「このままここにいたら暴行されて殺される」に母が平手打ちをするのはどういう気持ちからだろう、いつまでも娘の気持ちしかある意味分からない私には「そんなことを考えるな」というサインにしか思えない。しかし現実はそれじゃ済まない。母は手紙の「口減らし」の部分に固執するが、娘の決断の理由はそこにもあったことだろう。

元となった実話は児童書にも絵本にもなっているようだけど、この映画は今の日本では「貧乏でも勉強すれば道が開ける」との面ばかりが強調されそうで、作りもシンプルなようで複雑で、子どもに勧めるにも難しいと思う。父の行動や終盤のセリフにさらりと「新政権」が出てくることで大人のやるべきことが示されていると言えるから(14歳のウィリアムは投票という形での政治参加はできないのだから)、まずは私達の背を押してくれるものかもしれない。