家族を想うとき



「配達先のやつらが元気かと聞いてくるのは心の底からか?
 客が求めているのは値段の安さと配達の確実さだけだ
 このblack boxに全てが入ってる」

職歴を語る際「庭師はよかった、毎日違うところに行けた」と言うリッキーは人との触れ合いを好む。配達の仕事を始めても体が不自由なお客の荷物を運び入れてやったりサッカーについて(例によって)会話を交わしたりする。妻アビーも同じで、彼女の「ルール」は「介護先の皆に親のように接すること」であり、彼ら彼女らに学んで変わろうという気持ちもある。二人は互いにそういうところに惹かれたのだろうと想像する。本来多くの仕事にはそうした要素があり、ほんの数分の余裕からで持てるはずだが、今、それらは押し潰されている。この物語では企業から渡されるblack box、通称gunによって。その大元の正体は、末端のリッキーには分からない。

娘ライザ・ジェーンと息子セブは父を仕事に行かせまいとして「昔に戻りたい」と口にする。戻りたいとは仕事にまつわる世界が「悪化している」からそう言うのであって、それがローチの最も言いたいことなのだと思う。彼のこれまでの映画のラストシーンを思い返し、あの後に、この家族(イギリスの労働者の家庭と言っていい)には今よりよい時があったのだと考えた。万引きしたセブを捕まえた補導員の「努力すれば全てが思いのままだ」は映画を見ている、あるいは見ていなくてもおそらく、今を生きている私達には何とも間抜けに感じられるが、同時にこれがおかしいなんて社会の方がおかしいじゃないかとも思う。

息子が捕まったから出頭するようにとの警察からの連絡を受けるほんの数分をせかされるリッキー。クラクションと共にドライバーの出払った集配所の駐車場の、陽の光の元の残酷さに心が震えた。「私」のない朝に何の希望があろうか。学校が休みのライザと一緒に配達に出て楽しく過ごすも「客からクレームが入ったからやめろ」と言われたこともあった。自営業のはずなのに。こうした、全ての余裕を奪おうとする権力に私達は抵抗し続けなければならない。それは例えば、リッキーが「勉強はworkじゃないだろ」と苛立ちを募らせるセブの停学通知の文章、ああいうところからでも出来えるのだと思う。