エリジウム



水曜の夜8時過ぎに行くような、あのあたりでコーヒーの飲めるお店ってどんなところなんだろうと想像するだけで30分、古い科学絵本の背景を考えるだけで1時間は経っちゃうような、センチメンタルな楽しさ満載のSF映画


オープニング、「貧乏人」ばかりが残った地球の様子に、どこでロケしたんだろうと思っていると(今調べたらメキシコシティだそう)、スラムやゴミの山といった「見たことのある」風景に、高層ビルの名残に人間がわらわら居る「架空の」風景が組み合わさる。そしてシスターいわく「ここから見ると美しい」、「エリジウム」。その「中身」は少々意外な角度で現れ、真の「中身」からいい意味で気がそれる。
カメラは「社会」から「個人」へ、少年少女のまばゆい「思い出」が、そのまま「まばゆい」映像で提示される。少年が少女のために泥棒をする(行為そのものは映されない)場面の後、「エリジウム」のパーティの場面が挿入されると、彼が必死で盗んだものがそこではほんの一口足らずの快楽、いや快楽とも意識されないのだろうと思い切なくなる。


汚れた鏡に映るマット・ディモンの顔。どういう人だろうと思う。前科何犯でもあるが、周囲の「働かない」人々にからかわれても真面目に工場に勤め、子どもに優しく気を掛け、政府の手先のロボットに「無礼」どころじゃないことをされてもジョークで返す。
映画で最も面白いことの一つって、とくに主人公の人となりが徐々に「分かって」いくところだと思うんだけど、本作は私にとって、マット演じる主人公マックスがどういう人間なのか、先回りして考えることが全て裏切られるのが楽しかった。鮮やかな、巧みな裏切りじゃなく、えっそうなんだという感じなんだけど、がっかりさせられない。何か企んでいるのかと思えばそうでもない。フレイ(アリシー・ブラガ )に対する「君がロスに来たなら…」という台詞から、「その日」が来た時のために一心で生きているのかなと思う。愚直なのかと思えばそうでもない。ディエゴ・ルナ演じる友人との会話から「冴えた」頭の持主であることが「分かる」。とても納得できないけど(笑)まあいいかと思う。


本作で好きなのは、登場人物全てが自分の欲望のみに沿って行動しているところ。ジョディ・フォスター演じるエリジウム防衛庁長官役などはほぼ座って「指図」してるだけだけど(冒頭のパーティにおいてお酒を取る場面で指図するのに慣れていると分かる)、いわば「存在感」だけで欲望を表している。年を取って垂れてきた瞼が役柄にとても合っていた。
思惑が絡まりごたごたが続くが、マックスにとっては、怪我をしてフレイの家で助けてもらった際のセリフのように「職場で怪我をしたのでエリジウムに行くために昔の仲間の仕事を引き受けたら、やばいことになった」というだけのこと。対して彼女の方が「私の人生は複雑なの」と言い訳のように繰り返すのが面白い。作り手の女性観…女性が「特別」という感じ、も少々現れているように思われる。
ただ一人「違う」のがディエゴ・ルナ。登場時の瞳のきらめきに目を奪われていたら、彼だけが(「泥棒」だけど・笑)現状に満足し、友を思って生きている。シャツを着たままの薄い胸が可憐でよかった、だから退場時もそうそう、と思った(笑)