17歳の瞳に映る世界


旅行をする時には同居人が荷物をまとめて持ってくれる。私より身体が大きく体力もあるからという理由だろう、ありがたいことながら、荷物を預けるのにも覚悟が要る、持ち物は「自分」でもあるから。この映画のスカイラー(タリア・ライダー)が二人分の荷物を一緒に運ぶのは妊娠中のオータム(シドニー・フラニガン)を気遣ってだろうけれど、その姿には二人の少女の間に頼る、頼られる、という関係が生まれたことも窺える(大人である私の目にははらはらさせられるスーツケースの無防備な扱いの描写は作り手の意図なんだろう)。これはまず、内気なオータムが初めて人に寄りかかることができたという物語である。

オータムを助けるもう一つの存在が、ニューヨークの医療施設の、全てが女性のスタッフ達。冒頭スーパーマーケットの売上をくすねたスカイラーがそれをオータムのリュックにねじこみ、二人で荷物をまとめ、眠り、家を発ち、長距離バスに乗り、また眠り、乗り換えのために起きる…まで彼女らの間にセリフがないのと対照的に、初対面の専門家達は言葉でもって、痛みを伴うけれども必要な認識を彼女に促し即席ながらしっかりした関係を築く。子宮口を拡げるための管を入れる際には手を握り、全身麻酔の際には頭にそっと手を添える。「意識を失う」には余程の信頼と覚悟がいるけれど、彼女達がいるこの場なら大丈夫、そう思ったら涙があふれた。かつての自分が欲しかった優しさがあそこに詰まっているようだった。

オータムが自身の妊娠を知った時にまずピアスの穴を開けるのは、強要された(と後に分かる)セックスとその結果の望まぬ妊娠とは反対の、意思でもって体を変化させる行為で自身を鼓舞するためである。管を入れた晩(ボウリング場のシーンの、こちらの頭までぐわんぐわんしてくることよ)、ナプキンに付いた血を見て怖くなり母親に電話を掛けて声を聞くのは、いつものあそこにこのまま戻るわけにはいかない、何のために来たんだとこれまた自身を鼓舞するためのように思われた。これらを始めスカイラーに隈隠しのコンシーラーを塗られる時などオータムが鏡を見る、すなわち自分を認める場面が作中何度もあるが、この辛い旅の間、彼女を妊娠させた男は一度でも鏡を見ただろうかと考えた。そこに何が映ってた?

手持ちの金が底をついた時、スカイラーはバスの中で絡んできたジャスパー(テオドール・ペルラン)に連絡を取り、一緒に時間を過ごすことで「最低限の」金額を借りる。嫌がらせしてくる客、キスしてくるボス、地下鉄の中の犯罪者、何よりオータムを妊娠させた奴、こうした男達は映画の始まりよりずっと前、終わりよりずっと後まで存在するのであって、二人はそんな奴らの存在、ひいては多くの差別や不公平を許している世界からあの、これもいやらしい男を通じてほんの少しだけ借りを返してもらったのである。このやり方は言うまでもなくやればやるほど女性差別を助長してしまうものであり、当人がそれを自覚している場合もあるけれど、特にこの映画の二人なんて他にどうしようもない。女達の手を借りて苦境を乗り越えたオータムが帰りのバスで目を閉じるのに映画が終わるのが少々意外だったけれど、どのみち私達の旅はまだ続くのだ。休んだっていいだろう、このひと時を。