恋恋風塵



ユーロスペースでの「冬冬の夏休み」(感想)に続けて、ケイズシネマでのデジタルリマスター版上映に出向いてみた。


鉄道。オープニング、暗いトンネルを抜けて単線を進んでゆく映像は、ちょっとした「体感装置」。その後の数分で、山間の村での暮らしが身に染みて、アワンが「台北に行く」と言い出す時、そうか、ここ以外にも場所はあるんだと思う。一年後にアワンとアフンが共に故郷に帰る時には、二人は列車の「最後尾」に乗っている。登場時は子どもだと思っていたけれど、二人とも大人に近付いていることに気付く。


朝。この映画の朝の場面はどれも切なく胸がしめつけられる。その幾つかが「旅立ち」であることを考えたら、作中唯一、アワンの目線でアフンが撮られる、病から目覚めた時の「お腹空いた?」に続く、彼女が一人で帰っていく場面は、彼女が彼から旅立っ時だったのかもしれないと思う。ともあれ見ながら、自分が夕方よりも夜よりも、朝に寂しさを感じるのはなぜなのか、その理由が分かるような気がして、考えこんでしまった。


イージーリスニング。警備隊に助けられたアワンは、事務所のテレビで「炭鉱は長ければ長いほど価値がある」と語る番組を見ているうち、父親の事故のことを想起して倒れてしまう。この番組のバックにイージーリスニングが流れている。私にとってああいう音楽は、「何も心配することはない」とその場その時を過ごさせてくれる音楽なんだけど、やはりそうなんだ、その「外」には「世界」があるんだと思い知らされた。


日本。「冬冬の夏休み」では、台北の小学校に通う冬冬が、同級生と「東京ディズニーランド」の話で盛り上がる場面があったものだけど、60年代が舞台の本作では、帰省したアワンに「大学受験はどうした?」と尋ねた父親が、彼が小学校の頃の先生と会ったという話を持ち出し(この時点で涙がこぼれるじゃないか)お前は頭がよかった、でもうちは三代学問に縁がないからなあ、自分なんて小学校を出た途端に終戦で(日本の統治が終わって)一からやり直しだったと、一見何でもないような口調で言う。


ところで、スクリーンで見ると、兵役の壕での場面は、最後にアワンが腰掛けて手紙を書いている処以外全て、ガラス越しに撮ったように光が反射して見えたんだけど、なぜだろう?