誰のせいでもない



ヴェンダースが「人の心こそ3D映像で語るにふさわしい」と本作を撮ったというので、3D版を観賞。面白かった。私の代わりに目覚めたジェームズ・フランコが生きて、微笑みかけてくれる話だった。


上記のように言われたからこそ、3D映像であることを意識しないように、すなわちそれが「当たり前」のように見たかったけれど、まずは重たい眼鏡を掛けなきゃならないし、「他の映画」とはやっぱり違うし、色々気になってしまった。
映画が始まると、「小屋」らしき背景に塵が舞い、クレジットが次々と浮かび上がる。最後は勿論「Wim Wenders」。そして手を伸ばして触れたくなる、ジェームズ・フランコの美しい寝顔(この映画の彼はとても美しい)。冒頭は冬、しかもケベックの冬なので、家や車の窓ガラスの中の人物を外から捉えたカットが多く、まるで氷の下を透かして見ているようだった(と言ったところで、それも「映画」でしか見たことが無いんだけれども)。散る雪はスクリーンをスノードームの中のように見せる。


フランコ演じるトマスが男の子を連れて小高い一軒家まで歩いていくくだりが、結構な長丁場ながら飽きさせず面白く、それこそヒッチコックの映画のような趣を備えており、「クラシック映画」を3D映像で見たらこんなふうだろうか、などと思う。
心惹かれたのが、その後、シャルロット・ゲンズブール演じるケイトの息子が、母が駆け出して行った後の家に入る場面。画面の右下、その灯りがとても印象的で、3D映像ならではの奥深さに思われた。彼女が息子のために点ける灯りは全て暖かく、教会での「一人では耐えらない」との言葉に、それはまるで自身を削っているようだと思う。


そのうち全てが「普通」に見えてくるのは、私が3D映像に慣れたからなのか(「3D映画」を何度見たところで、それが「デフォルト」ではない限り慣れるのにその都度時間が掛かる)、それとも冒頭の「冬」が特別だったからかと考えるうち、そういえば、何年毎に時間が飛ぶのに、あれから「冬」が無いことに気付く。すると程無くケイトが、秋深まる中で新聞にトマスの「冬」を見つけるのだった。
しばらく後、スクリーンにようやく二度目の雪深い「冬」が来た時、ケイトは家を後にしている。トマスが本を書くことで「冬」を脱したなら、彼女は時間差で、あの時に抜け出したのかなと思う。


最後の章で、トマス達が帰宅して「窓が開いている」と騒ぐのを訳が分からず不思議に思っていたら、ガラスの壁があまりに透明に見えて分からなかったと気付く(この時の妻の「窓を閉め忘れたのは『罪』ではない」というセリフが面白い)。まるで今や有名人になったトマスには「私」がないかのようである。
迎え入れた「クリストファー」に「僕が大学生になったから母は旅立った」と言われたトマスがそっと目を閉じる時、ああ3D映像で見たかいがあったとじんとした。人生に他者が関わっていること、その不思議を、目の前の青年の何てことない顔が語っているようで、その手で掴めそうな「リアル」さに涙が滲んだ。


ゲンズブールの登場時のカットに、彼女は子どもを遠くに一人何かをする姿が似合うとつくづく思う(中盤にも同様の場面がある)。「(フォークナーの)本が面白すぎて」とはまたいいセリフ。彼女の息子がトマスにサインをもらうのもどことなく繋がっている。いわく「『あれ』より前の本はつまらない」。この物語において、トマスは誰からも、実にそうだなということを言われる。
夜中にトマスとケイトが電話でやりとりする場面において、3D映像の特質を多分活かして、互いに傍らにいるかのように撮っているのには、「ハドソン川の奇跡」でも、夫婦の電話での会話が、「位置」や「姿勢」で同じ場に居るように演出されていたのを思い出した。