台北ストーリー



4Kデジタル修復版をユーロスペースにて観賞。楽しく見た。内容からどうしてたって昨年のジャ・ジャンクー「山河ノスタルジア」を思い出してしまった。あれは素晴らしかった。


オープニング、空っぽの部屋から窓の外を眺めて立つ二人。アジン(ツァイ・チン)の最初のセリフ、別の部屋に移動しての「ここにテレビとステレオを置いて、ベッドに寝ながら見る」に、そうそうと思う。当時(1985年)子どもだった私は、少女漫画やドラマの中の床置きベッドやその周辺に自由を感じて憧れていたものだ。その逆とも言えるのが後に彼女が出向く実家の部屋で、それは子どもとして、もっと言うなら娘として、父親が落とした食器を拾う存在として暮らす部屋である。


アジンの上司が何かと「ビールを飲もう」と声を掛けるのに、彼女は「口癖なのか本当に好きなのか」と返すが、私には、彼と飲めば一つの夜が消費される、それがなぜかとても寂しいことに感じられた。ちなみにこの上司は「東京ラブストーリー」(1990)の和賀を連想させる(あそこまで物語において「活躍」はしないが)。そう思うとこの映画、柴門ふみの漫画みたいだ。アリョン(ホウ・シャオシェン)とかつての恋人がブランコ(とその脇)で、その場に居ないアジンについて「自分だけが知っている」ことを話す場面など、強烈にそれっぽい(笑)彼女の漫画にはお金やら他の国のことやらは出てこないけど。


冒頭、上司のセリフに合わせて当の仕事中のアジンの姿が、ニューヨーク・ヤンキースのキャップを被ったコーチのセリフに合わせて話と関係の無い眼前の野球少年達の姿が映る時、とんでもなくメロウな爆弾が私の中で炸裂した。なぜだかカサヴェテスの映画に出ている時のピーター・フォークが心に浮かんだ。そんな使い方、あったようには思わないのに。でもって冒頭のそれらからずっと、もうないなと思っていたら、アジンが窓から外を見やるラストシーンでまたその爆弾にやられる。その時分かった、それって、映像から時間が引き剥がされる甘美な痛みなんだって。


アリョンが皆に「寄ってきた?」と聞かれる東京は、前年(1984年)のホウ・シャオシェン「冬冬の夏休み」で冬冬と友達が出来たばかりのディズニーランドについてやりとりする東京。アジンの「アメリカはどうだった?」にアリョンが「アメリカはアメリカだ」と返すアメリカは、私が生まれて初めて認識したレーガンアメリカだ。尤もアジンの妹が原宿や渋谷に行きたいと言う日本とアリョンの恋人が「小林」と結婚した日本、アジンの仕事仲間にヤンが絡むダーツバーのアメリカと妹達が「フットルース」で踊るアメリカ、色々あるけど。


終盤、部屋まで送ってもらった、送った後に、電気を消したり点けたりし合うアジンとアリョンの姿に、朝が来てしまうと思う人間と、夜が来てしまうと思う人間とが居ると考えた。そのすれ違いはどうしようもない。翌朝のアジンの部屋には、二人が望もうと望むまいと、新しい空気が感じられた。