冬冬の夏休み/山猫



ユーロスペースにて、「冬冬の夏休み」デジタルリマスター版。スクリーンで見るのは初めて。


先日シーに行ったところだから、冒頭の台北の駅のホームでの友達と冬冬の「あいつは東京のディズニーランドに行くんだよ、僕も来年連れてってもらうんだ、15になったら出国できなくなるから」「えっそれじゃあ僕も来年行く」というやりとりが楽しく、冬冬は東京に来たかしら、なんて思ってしまった。この映画が発表されたのは84年、私は開園したての83年だか翌年だかのディズニーランドに連れて行ってもらっているから、なんだか繋がっている気もして(「お坊ちゃん」じゃなくてもこっちは国内だからね・笑)


オープニング、卒業式で女子生徒が「卒業していく先輩達が涙を流す意味が分かりませんでしたが、今は分かります、別れは辛いのだと」とスピーチする。決して「美辞麗句」には思われず、なぜかとても「実感」して、そっか、6年生というのは別れの辛さに初めて涙を流す時期なんだな、なんて思っていたら、その後に登場する冬冬や友人にはそんな片鱗もないのがいい、子どもってそういうものだ。式の後、校舎を外から捉えた映像で、子ども達が2階と3階で逆に進んでいく、ああいう画も好きだ。


「(「電話はだめよ、手紙を書いてね」と言われた母親への手紙の中で)毎日色んなことがありすぎて覚えていません、また手紙を書きます」。変なことを言うようだけど、この映画の例えばここまでを、彼は覚えていないのだ、それでも多分、何か違うのだ、と思うとたまらない気持ちになる。だって、悪いことは悪いでしょう、と「やるべきこと」をやるもすっきりしない時、子どもはうつ伏せてふて寝するしかないのだ。



恵比寿ガーデンシネマの「ヴィスコンティと美しき男たち」にて、「山猫 4K修復版」にも滑り込み。 ヴィスコンティの作品は晩年のものの方が好きだったけど、これも素晴らしい、とにかく飽きない。先日見た「ルートヴィヒ」はバーガーの右目から始まるが、こちらではドロンの右目がしばし隠される(そして彼はカルディナーレの左側に座る、右目で彼女を見るから余計しなだれる)主人公が、他人には慕われていながら孤独を感じているというあたりも少し似ている。


カメラが見事に近寄っていく「古く大きく堅牢で風通しのよい建物」の中で、家族による読経(じゃないけど・笑)と、とうとう背後に迫った「革命」とが描かれるオープニングからして目が離せない。この建物こそがバート・ランカスター演じるサリーナ公爵で、彼は自らは風になれないと知りながら、常に風を求めている(それが自分達を埃まみれにするものであっても!)。ちなみにスクリーンで見ると特に、庭に倒れた兵士が息をしているのが思い切り分かるのもチャーミングで、格好つけて死んだふりをしている美青年がここにいる、と楽しくなる(笑)


公爵の、甥であるタンクレディアラン・ドロン)についての「財産を浪費するような親からこそ、ああいう魅惑的な人間が生まれるのかもしれない」との言い様には実に意味がある。冒頭のタンクレディが、やって来たかと思えば「じっとして居られない」と馬車にかけ上り帰っていく、どこかに向かっている、犬がまとわりつき女達がテラスからまさに「見送る」存在であるのと違い、公爵が「財産は七等分だ」ときちんと育てた子らは、常に大きな部屋の自らの位置に点在し、じっとしている。


クライマックスの舞踏会で、花嫁の父に「素晴らしい屋敷だ、今はもう金をかけてもこんなものは作れない」と話し掛けられた公爵の「あの二人にはかなうまい」に、そういうことなのだと胸が早鐘を打ち、次の間で絵を見るランカスターの瞳が、ドロンのそれに似ていなくはないことに初めて気付いてはっとし、カルディナーレとワルツを踊る束の間、その目に「生」を見る。素晴らしい。


将軍(ジュリアーノ・ジェンマ)の歌に犬までが欠伸をする画や、オルガン弾き(セルジュ・レジアニ)が飲み物を吹き出す所作など、前半はコミカルな描写も見られる。軍の仲間とやって来たタンクレディが、こちらに向かって喋る「かのように見える」場面もある。冒頭の「兵士」然り、他の作品には無い、どこか「舞台」的なもの(「作為」を隠そうとしない態度)を感じる。町中での戦闘シーンも圧巻ながら、スクリーンで見ると、人間達がどこか人形、あるいは小人のようにも見えるのは、後半の公爵の「永遠といっても我々のそれなんてちっぽけなもの」とのセリフに繋がっているように思われた。


例えばロメールの映画の女性の衣装には意味があり、ああいうのも好きだけど、私はカルディナーレがドロンと「部屋数の知れない」屋敷でじゃれあう時のあのドレス(公爵に言わせれば「少々下品」な女の着る服)がいい、着てみたい。容姿が違いすぎるけど、着るだけなら何とでもなる!(笑)