
予告に是非見たいと思ったのは、第一に「女同士の(文字をうつのも嫌だけど)ドロドロ」に使われてきた類の設定が書き直されるのを求めているから、第二に最近の映画ならアルモドバルの『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』でも女二人が同じ男と(同時にじゃないけど)付き合っていたし『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』の原作となった小説『大都会の愛し方』では主人公とジェヒが同じ男とセックスしていたし、私もそういうのってあると思う、男を介在した「男」じゃない者同士の通じ合いを求めているから。この映画はよく応えてくれた。
主人公ウナ(エリーン・ハットル)はバイセクシュアルで、本人の言では「(付き合う相手に)こだわらない」。ウナが密かに付き合っていたディッディ(バルドゥル・エイナルソン)と「完璧なカップルだった」と仲間内で言われるクレア(カトラ・ニャルスドッティル)はそういう存在には思い至らないような、ウナに向かって「最初嫉妬したけどレズビアンでよかった」なんて言うシスヘテロ女性(レズビアンとの判断はどこから来ているのか)。相容れないようでトイレでの初めての一対一での会話、タバコを吸いながらの教会前の広場のやりとり、いずれもしっくり来ている。同じディッディが好いた者同士、通じるところがあるのかもしれない。
「カップルは社会に開かれていなければ」と私は思うしそのことを描く映画も幾らかあるが、海に向かうウナとディッディに始まるこの映画は社会から断絶されている関係が壊れた時の悲劇を描いていると言える。冒頭の二人の抱擁は二人だけの世界でのそれだ。翌朝ウナは、自分も全然知っている彼の同居人から隠れて、犬に吠えられて家を後にする。芸術大学の授業では男子学生三人の「期限切れの両面テープ」でもって自分達がくっつくパフォーマンスアートにうつむいてふふっと笑う。しかし突然の悲しみに見舞われた後は誰ともいわば真のハグが出来ず苦しむことになる。
ウナがいっそ何も知らない人をと父親に電話する時、建物の外にはやはり広い海が広がっている。ウナは車の中で父親にしがみついて安らぎを得ようとする。「誰かの家」では皆にハグされるクレアの姿にいたたまれなくなりその場を離れる。どう考えたってこの悲しみの中でハグし合うべきなのはこの二人だろう、この映画はそこに向かってずっと進んでいると思う(途中代替としてダンスがあり、確かにハグとダンスには被っている領域があると思う)。ウナとクレアが分かり合い抱き合って眠った後、カメラは海を朝日に向かって飛ぶ。大学でのウナのパフォーマンスアートは「人を信じれば、人は飛ぶことができる」であった。