ミアとホワイトライオン 奇跡の1300日


「私達もこんなふうになれるかな」。関係を一方がどうこうするなんて言語、あるいは非言語でもって交流できる人間同士だって無理なのに、ホワイトライオンのチャーリーに対してミアは言う。子どもだから、とも考えられる。ミアのこの思いと実際の関係はどうなるのか考えながら見ていたら、それどころじゃない、何より大事な「命」が問題になっていく。ミアの変化は否応なしの成長とも言える。

昨年「ロックダウンによって人間のいなくなった場所に動物達が現れるようになった」というニュースをよく目にしたものだけど、この映画にも似た図があった。ライオンファームにて、ミアが解放した動物達がうろついて一家は外に出られなくなる。自分達の住処に「家」が建ったから遅ればせながら見に来たふうでもある。大人たちの中でミアの兄のミックだけが笑顔を見せる。

話はロンドンから超してきた兄と妹が南アフリカに馴染めないというのに始まる。子どもは親を選べない、もしも自分が悪だと思うことを保護者がしていたら?「これで経済が成り立っているんだ、世界は変えられないんだ」と言う父親に麻酔銃を向けるミアの姿には、世界を変えるために立ち上がっている若者達が重なって見える。それじゃあ大人は、と思う。

生存するものに「役割」なんてあるものかという話でもある。チャーリーが観光客にじゃれついたことによる騒動に対しミアが「興奮してるんだ、人が多いから」と言うと父親は「客の前で恥をかかせるな」「お前もチャーリーも役割を果たせ」と怒鳴る(対してメラニー・ロラン演じる本作の母親は、「生きているだけで価値がある」と子に伝える存在である)。もしも人に役割があるのなら、悪いと思うことを正すための行動のみだとこの映画は言う。

缶詰狩りをやっているダーク(本作におけるいわば「悪」の象徴)が「下心で妻を見るのはやめろ」に「敬意の表れだ」と返すのも、自分の思う「役割」を果たしているか否かで相手の価値を測っていることの表れである。これは意図的な描写というより、「よくある嫌なこと」には大抵問題が含まれているというものだろう。