
イスラーム映画祭にて観賞。2023年ブルキナファソ=セネガル=フランス=ドイツ、アポリーヌ・トラオレ監督作品。
冒頭、砂漠をゆくフラニのキャラバンでは、女達がバケツの水を回して飲んだり男の子達が私も見慣れたふうの「馬跳び」(「馬」じゃないかも)をしたりとくつろいでいる。シーラはそんな晩には頭も脚も覆わず、女はしないとされる屠殺をして父親に咎められる類の女性だ。しかしイスラーム武装組織に遭遇すると一転、「砂漠で」襲われる、置き去りにされる、そして生き延びるための苦痛と闘わねばならなくなる。頭である父を殺したリーダーのイェラは女達に恐怖を残し去ろうとするが、シーラが「呪ってやる!アラーが許さない」と声を上げると戻って頬を張る。指示がなくとも部下達が彼女をひきずって連れていく描写に男の組織の恐ろしさを見た。
(以下「ネタバレ」しています)
性暴力ののち砂漠に捨てられたシーラが痛めつけられた体で立ち上がり歩き出す姿に息が苦しくなる。中盤は、「寝床も水もあるから」と武装組織のキャンプ近くに隠れ住む彼女の様子と並行して内部の男達の様子が描かれる。大義ではなく権力にとりつかれたイェレに部下は不満を抱いている。性処理と家事のために奴隷として連れて来られた少女達の前でシーラが「何もしなければ全員死ぬ、アラーがしないなら自分でする」とぶち上げる場面の後で、男を犯したムスタファが自身の性的指向についてアラーよ助けてくれとくるったように祈る場面を見ると、神とは何だとがっくりきてしまう。シーラとて後にはまた神に祈ることもある、要は先立つものは何かということだ。
シーラが「自分で選んだ」婚約者であるキリスト教徒で農民の青年シャン・シディは、その柔和なルックス含め、女が作り手になると男の表象こそが変わるという一例に思われた。「彼女は性奴隷になる、そうすれば死ぬより辛い、だから捜しに行く」とはっきり言うのが印象的(一方女性で年長者であるシーラの母親はそれは口にしないでと返す)。彼が作中果たすのは「瀕死の状態になっても愛する女性のもとまで辿り着く」ことであり戦闘を直接手助けするわけではない。再会した二人を優しく捉えたラストシーンには、民族や宗教、「男女」の違いを超えた存在同士の結びつきが表れている。
実際の出来事を下敷きにしたこの映画に描かれている希望の数々は、シーラに銃を教えた兄からナイフでの屠殺を任せる仲間を始め、母の会議への参加を「認める」村の男達や大義のために老いて組織に潜入する男、組織を一網打尽にする政府軍などの男の手によってなされる。シーラは確かに銃を撃つが、そのためには男達の力が要る。それは男がいなければ女は何もできないということではなく、男の問題なのだから男が尽力してくれということなのだと私は思った。