ディリリとパリの時間旅行


映画は「役割」を果たしているのを「見られ」ている少女の姿に始まる。「僕らの言葉が話せる?」「あなたよりうんと上手にね」と答える彼女、ディリリを主人公としたこの映画はまず、世界に中心などないと言っている。フランスにとって流刑の地であるニューカレドニアは彼女には愛する人のいる土地、船上では「(フランスの)伯爵夫人から彼女の『部族』の風習を習った」。

母語を持てずアイデンティティを喪失する子どもが日本でも増えている中、二つの言語を我が物とし「どちらの人にだってなりたい」と望めるディリリは恵まれているとも言えるが、勿論いいのだ、それが当然の権利なのだ。彼女の最後のセリフ、すなわちこの映画の子ども達へのメッセージは「まだまだこれから」だが、歌や踊りを学びながら法学部に行くために貯金をし「不正は許せない、正義を実行したい」と言う青年オレルだとて一体何になることだろう。

ベル・エポックのパリを舞台に次から次へと登場する目も眩むほどの有名人たちはある種の軽さでもって記号のように描かれており、ディリリの「私も何かを作ってみたいけど、まずは女の子たちを助けるのが先」にも表れているように、人命の前には単にノートに書かれた名前の切れ端ともなる。ロダンに会った彼女が「これが一番好き」と言う彫刻がカミーユの作品だという一幕がいい。ロートレック目線のアクションも(笑)

ミッシェル・オスロのアニメーションならではの表現が、世界におけるレイヤーとでもいう感覚に繋がっている。少女が次々に誘拐されているのにも関わらず町を楽しむパリの人々(…の中に先の有名人らも入っているように見える)と、事件を解決せんとオレルの配達車で飛び回る二人。エマ・カルヴェの歌声にようやく事件を意識し「世界が完璧に戻った」と感動する婦人の姿には、やるせなさと同時に「芸術」の役割も思う。

地下にその領域を広げ、汚水には飛び込めまいと下水の脇で女を飼育する悪者たちに対し、ディリリと仲間はエッフェル塔、階段を上った、上った先のオレルの部屋、飛行船と空から打って出る。実際に被害に遭ってきた身としては、「(悪者が)鼻輪をしているからすぐ分かった」なんてそんなことありはしない、悪の目印などないのだと言いたくなるが、彼ら自身がそれを誇りにしているらしいことには現実味がないでもない、というか、これは100年前を舞台とした物語だけれども、いかにも昨今らしいとも言える。