
7歳のノラの登校初日のオープニングには、そもそも集団に分けられ決められた時間に決められた場所にいなきゃならないなんて異常なことだと思わせられる。大人は子どもを校門の中に入れさえすれば何とかなると思っているが、何とかなる方が奇跡だ。自分も苦労したのに子どもにそれを負わせている場合、忘れたのではなく面倒だから考えないようにしているんだと思う。
『小学校 それは小さな社会』(2023)の、運動発表会のために家で一人黙々と練習して二重跳びが出来るようになるくだりは恐ろしかったけれど、劇映画であるこちらの授業描写の殆どを占める体育の時間も恐ろしい。「教わる」のではなく列に並んで言われたことをやる。ノラも何で足元じゃなく前が見れるの?の平均台に始まり棒を使った指示に従いプールに飛び込む。教室での授業描写は一斉音読や書き取りといった全員揃っての行為のみが抽出される(他の活動もしていると思いたい)。
「遊ばないの?」「食べないの?」…皆と同じことをしないの、というのが後の友達からの最初の声かけなのは、人間のコミュニケーションがそう出来ていると言っているのだろうか。「皆」の成員となったノラは皆がするとされている「『友達』と」「遊ぶ」ために日々闘わねばならない。大事なのは「友達と遊ぶこと」であり「友達」ではない。校庭での休み時間は体育の授業と逆の「自由」な時間では決してない。平均台遊びには過酷なルールがあり、人間関係によって生死が決まる。ノラははじき出されないよう、いじめられている兄を排除しようとまで考える。体育の授業は次第に息苦しくなる。
ノラが友達に教えてもらった靴紐の結び方を父親に教えるように、子どもは学校と家を繋ぐ。友達の「失業者とは働く気がない人」「差別主義者とは自分のことしか考えない人(つまりサッカーをしている大きな男の子)」などは逆に保護者から子を通じて学校にもたらされ広まるものだ。ノラと父親が校門を出て帰りかける場面からは、子どもの世界は校門の中からどこまでもずっと続いていることが分かる。苦悩はバニラアイスじゃ溶けない。
これは兄妹のハグに始まりハグに終わる、ハグの映画である。ノラの担任の若い女性教師…兄がいじめられているのを報告するも「何をしているの」「担任でもないのに」「あとで話しましょう」「天気のことでも?」とあしらわれ、そちらの担任には「(自分のクラスの)子どもたちを歩かせて」と言われて終わり、後にはノラに「もっと早くできればよかった、でも何をしていいか分からない時もある」と言い「早くしてくれればよかったのに」と返される頼りない、教員経験者ならば胸の痛くなるあの先生が辞める日、絵を渡したノラはしっかと抱きつく。あれは一体何だろう?でも知っている、リアルだと思った。