ケナは韓国が嫌いで


ケナ(コ・アソン)とジェイン(チュ・ジョンヒョク)に向けての白人のおじいさんの英語は日本語版の小説ではうあうあ、といったふうに書かれていたのが日本公開版の映画では日本語字幕がつく。「来る前に英語を勉強してこい」に韓国語で「わかったってば」と目覚めたケナは韓国の家にいる(ここで姉妹が小説のように寝室、どころかベッドを共有していると分かる、こちらは三姉妹でなく二人だが)。「韓国が嫌いで」国を出る前と出た後を彼女の心の動きに沿って交互に描いた小説が、時間も夢も現実も交錯させるチャン・ゴンジェ監督のやり方で魅力的に映像化されている。

作中初めてのケナとジミョン(キム・ウギョム)との場面には、これもまた監督の過去作のテーマであった、二人は二人だけではいられないということが描かれていると思う。常に向かい合う二人は見ているものが違う。対してジェインとは常に横並びで同じ方に向かっている。女性にそうした人はいない(エリーとはテンポやスピードが違いすぎて並べない)。小説で目立った、不満がありながら愚痴るだけの女性達への苛立ちは登場人物ごと取り除かれているが、私もあれらには同意しないけれど除去するのじゃなく監督の視点を見せてほしかった。

これはケナが「韓国が嫌いで」じゃなく自分が幸せになるために再び韓国を出て行くまでの物語である。妹エナのボーイフレンドのライブの後に皆が集まって語らう場面では、残って闘う、ギター一本で外へ出て行く、どの考えだって悪くないという小説からは感じられなかった視点(ただし男性のもののみ)が提示され、ケナは一人になって自分のすべきことについて考える。大学を卒業しても試験を受け続けていたキョンユン(パク・スンヒョン/ほぼ映画独自の登場人物)…あんなに寒いなか素足だった、耐えることに慣れ過ぎていた彼に、不安そうな人ばかりのここを出て好きなところに逃げていいと言えていたならと思った彼女は、今再び自分が出て行くことにする。

小説ではケナの移民の元には常に男性への反発がある。職場の打ち上げの席で男達がこの国が好きだ!などと歌うのを聞いてそれは強がりなんじゃ、移民してもいいんじゃないかと考え始め、そのために貯めていたお金を再開発に伴う負担金に貸してくれとの父親の頼みを受け入れるがある日もう限界だと約束を破棄して実行に移す。父は金銭的な理由から、母は自身の寂しさから娘を引き留めるのが映画では逆になっていたのには驚かされた(煮干しの腸を取りながらの取ってつけたような会話は小説では母が寂しさを訴えるものだ)。こうした改変の数々は、女性は抑圧されていると言いつつその大元には触れないといった卑怯な態度に私には思われた。