Four Daughters フォー・ドーターズ


映画を作るという設定から、まず母オルファと娘のエヤ、テイシールによる家族の歴史の記憶についての話し合いが行われる。負担の大きい場合にオルファを演じるヘンド・サブリ(このやり方にはマイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルで見た『千の顔を持つ男』(2024/感想)を思い出した)や「男」役のマージ・マストゥーラの役作りのために父の、母の自分達への口ぶりを娘達が真似る。「なぜそんなことをしたのか動機を知らなきゃ」とサブリに問われ、オルファは当時の心情を言葉にする。

それから自身が加わって、あるいは陰で確認しながら撮影=再現が行われる。これは私にはタイムトラベルしてのカウンセリングのように見えた。エヤやテイシールは涙を流しながらも「映画に出たおかげで言えた」、同時に「観客に伝えなきゃ」などと話す。イスラム国に加入した上の姉のラフマとゴフランを演じる役者二人との、時に同世代の、時に少し年齢差のある女同士の交流、体を使って笑う練習をしたりヒジャブについて語り合ったりといった場面も印象的だ。

通じて描かれるのは親から子への呪いの連鎖だが、カウサル・ビン・ハニーヤ監督が冒頭「ラフマとゴフランは狼の餌食になった」と言うようにそれは外からやってくる。物語の始まりであるオルファの生い立ちは、シングルマザーと姉妹の女ばかりの家に男達が侵入してくるのでトレーニングし髪や服を男のようにし攻撃してくる相手を全員殴っていたというものだ。娘達に暴力を振るうようになった彼女は母にされたことをしてしまったとも話し、テイシールは「ママは悪い人じゃない」と言う。映画は「この家族に呪われはしない」、すなわち連鎖を絶つと言い切るエヤとテイシールからラフマとゴフランへの涙と怒りに満ちた愛のメッセージ、そしていわば未知であるラフマの幼い娘の顔に終わる。

オルファが「私の人生に男が入ってきた」と言う初めての夫が、一緒に見ているテレビの画面の「ヘンド・サブリ」をアバズレだと言う。「私もアバズレになろう、でも一人じゃなれない」に夫役のマストゥーラが笑い出してしまうと、オルファ役のサブリは「私達はアバズレと言われる、男の役者は何をしても何も言われないのに」(女性のメイクさんにもどう思う?と問いかける)。母娘の断絶がほぼセックスに関することである理由が垣間見える。自分は肌を出したい、男とセックスしたいが娘にはさせたくない。それにオルファには「チュニジアの次は私が革命を起こす番」と離婚した後「女一人でも」立派に娘を育てねばというプレッシャーもあった。

「女の体は夫一人のもの」と言うオルファに対し20歳前後のエヤとテイシールが「私の体は私のものでしかありえない」と返すのには、家族の外の誰かの力が女の世界に影響を及ぼしていることが分かり頑張らなきゃと思わせられる。性的な問題に関しては話し合いや再現演技で母娘の間に笑いが起きて融解することが多いのも、サブリという他者が加わっているからというのが大きい。

この映画では全ての男を一人の男の役者が演じている。エヤいわく「性行為を通じて私の誕生に貢献してくれた」だけの父親から娘達に性加害をして逮捕された母の恋人、キスの相手の同世代のボーイフレンド、ラフマがイスラム国に加入した後にオルファが訴えに行くもゴフランの(「私ならその恥ずべき制服を脱ぐ」「おれもニカブを被ろうか?」)「あなたは女?」に「おれがどんな男か見せてやる」と激昂する役人まで。最後の場面には、ラフマやゴフランにとってイスラム国はチュニジアの男達を屈服させる手段のように思われたのだと考えた。

作中唯一、「男」役のマストゥーラのみ「納得できない」と当人の希望で監督と映画の内から外に出る(という場面がある)。あれがこの社会で男が引き受けねばならない痛み…女に「男」と扱われること…だと言える。要するにこれも監督の『チュニスの切り裂き男』(2014/感想)なのだ、あれは切り裂き男とはチュニジアの男だという話なんだから。それは娘の失踪後に番組に出たオルファが男ばかりの出演者に向かってあなた達の責任だと言い放つのにも表れている。