奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ



この作品には、「教室」が限定された場でありながら実は開かれており、それを教えるのが教員の仕事であるということが描かれていた。そんな意図は無さそうだけど、映画が「教員歴21年」になったゲゲン先生(アリアンヌ・アスカリッド)の自己紹介で終わることにもそれが表れている。私の母も昔「教員という仕事の特徴は、接する相手がどんどん変わってゆくこと、『生徒』だけじゃなく『同僚』も(後者は学校によるかな)」と言っていたものだ。


舞台は「29の民族集団」から成る「二か国語クラス」に入れなかった者達の集まりだが、冒頭の幾つかの画…例えば様々な、何割かは信仰に基づく格好をした人々が行き交うのを遠景で捉えたカットなどにより、その「教室」に実は囲いのようなものは無いことが示されている。マリック(アハメッド・ドゥラメ/この映画は彼が監督に送ったメールから始まった、ここで彼は彼自身を演じていると言える)がバスの中でショア記念館で見てきたことを振り返る場面にはふと、ゲゲン先生の言う「歴史を理解する」とは、それを時間をも飛び越えて実感することなのではないかと思わせられた。
ゲゲン先生が作中唯一、悲鳴のような声をあげるのは、自分達とテーマが被る他のグループの発表をやめさせろという主張から始まるクラスの混乱の際なのである。「自分のグループから動こうとせず、座ったきりで、他のグループと情報交換もせず喧嘩ばかり」。


その(自分と実は繋がっている世界の)理解を助けるのが(「(被害者は)死んでるのにどうやって学ぶの?」との問いが出た時にもゲゲン先生が答えるが)「資料」であり、「実話を元にしている」そうなので単なる事実なのかもしれないけど、もう一人の指導者が学校の司書というのも大事な点だ。作中には「資料」に触れる生徒の姿が何度も挿入される。映画好きのマリックが、自室で「デンゼル・ワシントン」から「アウシュビッツ」に「飛ぶ」シーンなど印象的。
そもそもこの映画では、学ぶ内容そのものよりも、例えば「大量虐殺」だか何だかと答えてゲゲン先生に褒められ喜ぶ生徒や、ショア記念館で「買い物はまた今度にする」と展示に見入る生徒につい口の端が上がってしまう司書の女性といったような、勉強に付随する素朴な感情の方に焦点が当てられている。それが終盤の、シューマンが流れる授賞式の高揚にも繋がっている。その後エッフェル塔の前で輪になる彼らが、「自由・平等・博愛」という「フランスの精神」に乾杯しているのは明らかだけれども。


冒頭ゲゲン先生が、キリスト教の教会の絵の地獄にはムハンマドがいると明らかにすると、アラブ系の生徒が教室を出ていこうとする。先生いわく「これはプロパガンダなのだ、すべての事には意図がある」。これが教育である。後に発表のために集まった際には、「『パレスチナ』も『アウシュヴィッツ』と同じ」と執拗に言い張る生徒に「『アウシュヴィッツ』は『ショア(絶滅)』を目的とするので異なる」と言い切る。このあたりは、もしかしたら教員によって「語り方」が異なるかもしれない。
現代の若者が直面する「宗教」問題が他に見られないほど取り上げられている映画だが、そんな中、生徒に「収容所で信仰は支えになりましたか」と問われた生存者レオン・ズィゲル氏の「私は無神論者です、目の前の君たちは信じるが、神がいると思わない」という言葉の、いや、彼の強さよ。彼の目はすごかった。