こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話



ブレス しあわせの呼吸感想)」の直後に予告編に遭遇し、内容やテーマに通じるところを感じて楽しみにしていた一本。面白かった。舞台である1994年に萩原聖人がどんなに人気があったか思い出しながら見てしまった(笑・正確には、人気だけで言ったら「頂点」はもう少し前だけど)


作中のシンポジウムはパネラーの「駅のエレベーターは障害者の長年の運動により設置された」「それにより高齢者や病気の人も楽になる、障害者が生きやすくなれば全ての人が生きやすくなる」との言葉で始まるが、これはまず徹頭徹尾、社会運動家の話である。何気ない会話の数々から、「口だけが武器」の鹿野靖明(大泉洋)が運動家として生きていることが伝わってくる。家の窓が常に開いており風が吹き込んでいるのには、社会との繋がりを求める彼の気持ちを感じる。


運動家の目的は当事者のみならず他の人々を変えることにこそあるが、本作でその成果を表すのを担っているのが美咲(高畑充希)と田中(三浦春馬)である。砂時計のアップで始まるこの映画において、一分一秒全てを意思によって生きている鹿野に対し自らの意思を意識したことのなかった二人が変わっていく。病院の屋上で美咲と田中が好き合っていながら言い争うシーンが素晴らしいのは、このすれ違いが顕在化するのは二人が鹿野との関わりによって変化しているから、すなわちあそこで描かれているのが彼の社会運動の実りだからである。


この鹿野不在の場面で交わされる田中と美咲の「同情すれば何だってできちゃうのか」「えー…同情じゃない、好きになるかもしれないじゃん」からの「ごめん」「ごめんじゃなく!」というやりとりには 、鹿野が訴えたい問題が端的に表れている。振り返れば田中が美咲を「差し出した」のは「(鹿野は「普通の男」じゃないから)取られる心配がない」と思っていたからじゃないかとも推測される。恋愛もの(恋愛要素)が面白いのはその人となりが端的に表れるところにあるが、本作もそうだと言える。


それにしても、なぜ田中は「田中」で美咲は「美咲ちゃん」なのか。鹿野や「家族」だけでなくバイト先の店長もそう呼んでいた。ああいうところには「そういう人だ」という描写または現実社会の反映というより思考の手抜きを感じてしまう。美咲が鹿野の「プロポーズ」を断る場面にも、女は人として好きだからといって男として好きになるわけじゃないということを訴えるアンチテーゼというよりも、(求婚ほどじゃなくても)女が意思を表せない状況が多いこの世の中で呑気だなと少々白けてしまった。