
デジタル・リマスター版をユーロスペースにて観賞。案外と内容を覚えていたけれど、今でも新鮮だった。古くなったところは多々ある、発言内容以前に当事者の少なさ、とりわけ登場する役者はほぼ「ゲイを演じたストレート」なのだから。『メーキング・ラブ』(1982年アーサー・ヒラー)に出演したハリー・ハムリン自身の「誰かがゲイを演じたと聞くと、本当にゲイかもしれないと思ってしまう」が悲しくも時代を表している。
「同性」同士のひとときが次々とスクリーンに踊る心浮き立つオープニングは、The Celluloid Closetとタイトルが出ると、映画の中に自分自身を見たいと当事者達が時に文脈から剥ぎ取って集めたものなのだと分かる。ドキュメンタリー製作時の1995年(ヴィト・ルッソによる著書は1981年)に近付く終盤に肯定的に…というか無言で呈示される『クライング・ゲーム』(1992年ニール・ジョーダン)などが『トランスジェンダーとハリウッド』(2020年アメリカ)では当然批判されていたことを思うと、今の映画は30年後にどんな目で見られるだろうと考える。
『トランスジェンダーとハリウッド』もそこから出発することに、映画が物の見方を教育する。マジョリティは呑気なものだけど、同性愛者の表象は「誰も死なないのが新鮮だった」『真夜中のパーティ』(1970年ウィリアム・フリードキン)を経て犠牲者から加害者へ転じる。映画の引用とインタビューが中心の本作での、『クルージング』(1980年ウィリアム・フリードキン)上映反対運動の実録映像は鮮烈だ。更に「周りが笑っているのに自分は笑えない」という体験談もいまだ共通で、何を笑うかには常に責任がついて回るものだと思う。
『噂の二人』(1961年ウィリアム・ワイラー)に出演したシャーリー・マクレーンが「子どもの告げ口がテーマだから私の役については誰も何も考えなかった、オードリーとも話し合わなかった」「あのキャラクターは自分自身を追求するべきだったのに」と話していたけれど、そういうことが見る側にもある。『サンダーボルト』(1974年マイケル・チミノ)は私の前世紀の「お気に入り映画」だったけど、ジョージ・ケネディが男にキスされるシーンなんて覚えていない。「(私にとっての)テーマじゃないから」なんだろう。そういうところにこそ映画の姿勢が表れているのに迂闊なものだ。
「アメリカ文学では同性愛者の男と奔放な女は同じ道を辿る」(主に殺される)のところで公開中の『ラブ・イン・ザ・ビッグシティ』(2024年イ・オニ)を思い出す(死なないけども)。原作小説『大都会の愛し方』の方が好きだけど、確かに昔から繋がる今の物語なんだろう。ちなみに『キャバレー』(1972年ボブ・フォッシー)のライザ・ミネリとマイケル・ヨークが同じ男と寝ていると判明する場面が流れたけれど、『大都会の愛し方』もジェヒの結婚式の会場にはどちらとも寝た男が複数いる。そういうところがいいのに映画にそういう要素は皆無で、このドキュメンタリーの「登場人物は愛すべき人でないといけない」が、30年後の今でも大作映画には適用されているんだなと思わせられた。