蟻の王


ブライバンティ(ルイジ・ロ・カーショ)いわくの「子どもでも書けるような文」を手がける、彼にとって当初全く違う世界の住人だった記者エンニオ(エリオ・ジェルマーノ)こそが「味方」だったというのが面白い。後年の裁判時に行われたデモでの演説でブライバンティは「著名じゃない、同性愛者である、この二つにおいて弱者だ」と言われるが、エンニオは映画の冒頭彼を観察しながら「(蟻の学術界の)権威だ」と言う。確かに権威は時にその範囲でなくあるか無いかが問題となるものだと思いながら見始める。

ぽーっとした青年の顔を先に映しておいて登場するブライバンティはいかにも若者をかどわかす「やばいおっさん」である。相手がエットレ(レオナルド・マルテーゼ)に替わってからも芸術などについてのみ語るその心が掴めず、相手の支配が目的なんじゃないかとうっすら思っていた…ところに、ローマでのクィアなパーティの後に初めてその口から「同性愛者」との言葉が出る。みな風刺画みたいだと、目を鋭く光らせ批判的な意見を口にするエットレに対し、同性愛者だから、ぼくは彼らと違うし同じでもあると、いわば生身の言葉が吐き出される。本心が見えなかったのは抑圧ゆえだと気付いて(エットレの兄もその心の内が私には見えなかった、同じ理由で)自分の見識のなさを反省していたところが、その次に彼が映るのは「教唆罪」なる罪に問われている法廷なのだった。

今この映画を見ると私にはジャニー喜多川の性加害問題と被って感じられた。何が通じており何が違うかが肝なわけだけども。「(男の)同性愛者」であることばかりに世間の目が向いている点が前者で、性加害か否かという点が後者だ。エンニオが同性愛差別のおかしさを述べる「もし相手が女子学生なら世間は『男らしい』と称賛するはずだ」とのセリフには、女は長年その害を被っているんだけども、との先からの思いが蘇る(彼の周辺では「女の記者は二人いるがあいにくどちらも出来がいい」「お前が喋らせてるんだろ、あんなの女の演説じゃない」などの言葉で今なお続く女性差別が示唆されているのに)。その引っかかりを抱いたまま見たラストシーンには、この映画はやはり少し危ういのではと思わされてしまった。

作中エットレとブライバンティの間で、蟻は仲間のために食糧を溜めておく「社会胃」を持っているという会話がなされる。ここではそれは同性愛者の共同体に関する話にも思われる。ふと数日前に見た、やはり同性愛「治療」の話が出てきたドキュメンタリー『パトリシア・ハイスミスに恋して』の内容が頭に浮かび、あちらには無知な私が初めて知るレズビアンコミュニティの話があったがこちらにはそれほどなく(劇映画だという差異はあるけども)、同性愛者でも男と女じゃ開かれ具合が違うこと、ハイスミスが「女は男がいなきゃ完全じゃない、男も女も男性が主人公の話を読みたがる(から私は女を主人公にしない)」と語っていたこと、つまり私だとてそうだけど女性にもミソジニーが浸透していることを思った。