C.R.A.Z.Y.


矛盾に生きるということ、どうしようもない優しさ、そうそう『カフェ・ド・フロール』!(…のオカルト要素。そういえばあの彼もDJだった)という、私にとってのジャン=マルク・ヴァレの色々があった。願望の映像化といういわば禁じ手を何度も使うのには『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』における比喩の扱いを思い出す。面白く見たけど、後年の作品よりかなり長く感じた。

主人公ザック(長じてマルク=アンドレ・グロンダン)のナレーションで「うちのパパは最高」と言っているのに画面からはっきり伝わってくる息苦しさ、それは幼い彼にとっての家庭という社会の過酷さなんだけども、それが父親(ミシェル・コーテ)への敬愛の気持ちと両立しているのが面白い。万事がそうで、対立の中に生きていく物語なのである。吸入器を使うのをやめたと恋人ミシェル=家の外の者に嘘をつくところにその苦しさが表れている。
無神論者になって救われたと言っているそばからの、『悪魔を憐れむ歌』で天に昇っていく場面もそう。でもってこの映画で一番面白かったのが、終盤キリストのごとく彷徨うザックが普通の人達に助けられるところ。聖と俗の相克というか入り交じりというか。

私にはこの映画の稀有なのは、60年代ケベックのとある家庭における権力の微妙なバランスの描き方に思われた。軍関係の仕事をしている、いっけん強権的な父親への母親(ダニエル・プルール)の、従順でもない、日本語で言うところの「母は強し」的でもない、いかにも普通の対応がいい。親子間の関係にも揺れと緊張感がある。映画の終わりに明かされるタイトルの意味からして「何だかんだいって家族」という話だったわけだけども、最初からずっと。
根底にずっと硬く在る、父の「『おかま』になるな」がどう変化するかという話とも言えるけど、作中どこか笑ってしまうパートがおよそその要素に絡んでいるあたり予想はつくといっていい。ただ父親が自身の同性愛嫌悪につき「子を持つという一番の喜びを捨てるな」との理屈を持っていたり「おれが完璧な父親だったなら」と「責任」を感じていたりするのは少々優しすぎる…いや優しさとは言わないか、甘すぎるのではと思いもした。