
『大都会の愛し方』(2019年パク・サンヨン)の主人公ヨンはジェヒの言動に逐一、これがジェヒだ、ジェヒらしくない、やっぱりジェヒだなどと心に思う。小説は徹頭徹尾ヨンの語りであり、唯一その名前がタイトルとなっているジェヒも、いやタイトルになる位だからというべきか、どこまでも他者だというところが好きだった。それは(シスヘテロ)女性ではない作者の真摯さの表れとも取れるし、文章でしか表現し得ない面白さでもある。女性であるイ・オニ監督がジェヒに命を吹き込み、私達をその内側に連れて行ってしまうキム・ゴウンがスクリーンに映る映画版はそれとは全く違う。
小説のジェヒは妊娠が判明した際、ヨンに(交際相手が複数いるため)相手が誰だか分からないと言う。医者に説教されたことも含めて私の学生時代の経験と同じなので…私は幸運にも妊娠していなかったけれど…産婦人科での一幕には思い入れがあったのが、映画のジェヒ(キム・ゴウン)はテーマ曲にも繋がる別のことを激しく訴える。韓国ドラマや映画ではなかなか扱われない中絶が描かれていたのはよかったけれど、私としては相手が分からなくても割を食うのは女だとの方を取ってほしかった。小説では自分の行きつけの産婦人科を教えてくれる(!)看護師の手に返される子宮の模型がそれこそラストシーンまで取っておかれる理由も分からなかった。術後のダメージの描写がないのは描かなくても分かることとして省略されているのかなと思った。
映画で目立った差異は世界を変えるという目線。2011年、女子学生はタバコを男子学生から見えないところで吸う。ジェヒだけが「さすがフランス帰りだな」と言われながら表で吸っている。十数年後の会社では彼女を先頭に女達が男と同じところに出て行って吸う。世界を変えると世界が変わる。フンス(ノ・サンヒョン)が「自分を保つため」に書いていた小説を世に出すようになるのもその波のうちである。彼が「クィア小説の新星、パク・サンヨン」の記事を読む場面は原作者へのリスペクトであり、そういう人達の活動で世界が前進していると言っている。ちなみに映画の終わりの彼の書き出しは原作の終盤の文句であり、この映画の、小説を受け継いで進んでいくのだという意思が分かる。
小説ではジェヒは「普通の人から見たらお前ら異常だぞ」と言ってくるようなやつと結婚する。「わたし浮気しちゃわないかな」「うまくいかなければやめればいい」と言いながら。理不尽な制度にどう対処するかの一つの答えが、退路を確保した上でくだらない結婚をすることというわけだ。ヨンの困惑含めてそれもありかなと思いながら読んだ。いっぽう映画では、当初「空気を読んで」ゲイを笑うのに同調していた男が、一人抗うジェヒに出会って「天才だ」「かっこいい」と考えを変えていく。結婚相手も変化する世界の一部であり、世界を変えれば女が男と結婚するのも悪くないかもというわけだ。ラストシーンの、小説ではひとかけらだったがここではしっかと積まれた冷凍ブルーベリーが希望を表している。